東大和市の遺跡と古道からたどる地域の歴史

狭山丘陵と武蔵野台地の地形から読み解く東大和
東大和市の歴史を遺跡や古道からたどるとき、最初に押さえておきたいのは、市内に戦国城郭や大規模な古戦場、巨大古墳が連続して残っているわけではないという点である。現在の東大和市は、北部に狭山丘陵と村山貯水池、通称多摩湖が広がり、中央部から南部にかけては比較的平坦な武蔵野台地が続く。奈良橋、蔵敷、芋窪、高木、狭山、清水などには旧村の地名が残り、住宅地や道路の間に寺社、石造物、古い道筋、遺跡が点在している。地域の過去を具体的に知る手掛かりは、丘陵と谷戸の地形、発掘調査で確認された石器や土器、住居跡、中世の板碑、江戸時代の高札場や村方文書にある。東大和市公式の市史概説でも、鎌倉時代から江戸時代が始まるまでのおよそ四百年間は資料が乏しい「空白の時代」と説明されており、新田義貞の鎌倉攻めに関する話も市内に伝承が残るとされている。そのため、市域全体を合戦の主戦場だったと断定したり、狭山丘陵に北条氏の城郭群が存在したと決めつけたりするより、確認できる遺構と伝承を分けて見ることが重要である。
多摩湖遺跡群が示す約二万年前の人々の活動
東大和市で確認できる人間の活動は、少なくとも旧石器時代までさかのぼる。市の公式資料によると、昭和五十一年、一九七六年の早春に村山貯水池の水が抜かれた機会を利用して多摩湖遺跡群の発掘調査が行われ、約二万年前の石器が発見された。現在は湖面の下になっている場所を含め、狭山丘陵の谷や尾根に旧石器時代の人々が出入りしていたことを示す重要な資料である。当時は現在より寒冷な気候で、定住的な農村が成立するはるか以前だった。人々は獲物や植物資源を求めて移動しながら、石を打ち欠いてつくった道具を用いていたと考えられる。多摩湖を現在の水道施設としてだけ見ると近代以降の歴史が中心になるが、貯水池建設以前には谷あいの土地と集落があり、さらにその地下には旧石器時代からの痕跡が残されていた。湖岸や水道用地には立ち入りが制限される場所も多いため、遺跡を現地で自由に観察できるわけではない。歴史散策では、郷土博物館の展示や市の文化財資料を利用し、現在の地形と発掘成果を重ね合わせて考える方法が現実的である。
縄文中期に増えた集落と八幡谷戸遺跡・鹿島台遺跡
縄文時代になると、東大和周辺では人々の活動がよりはっきり確認できる。市の歴史資料では、約一万二千年前から始まる縄文時代に気候が温暖化し、土器や弓矢の利用が進み、市内でも人口が増え、約五千年前に一つの頂点を迎えたと説明されている。この時期の土器、石器、住居跡が多く見つかっていることが根拠である。市指定史跡の八幡谷戸遺跡は縄文時代中期の集落跡であり、鹿島台遺跡も同じく縄文中期の集落跡で、八幡谷戸遺跡より一時期古い段階に位置づけられている。ここで重要なのは、古代の人々が現在の行政区域を意識して生活していたわけではなく、狭山丘陵の尾根、斜面、谷戸、水場、周辺の台地を一体の生活圏として利用していたことである。木の実を採集し、狩猟を行い、水を得やすい場所を選びながら集落を構えたと考える方が、現在の市街地だけを見るより実態に近い。郷土博物館には縄文時代中期から後期の食料加工に使われた石皿など、市指定文化財となっている資料もあり、遺跡名だけでなく、当時の生活技術を具体的に想像する手掛かりになる。
弥生・古墳時代を巨大古墳の物語にしない
東大和の古代史で注意したいのは、市内に有力豪族の巨大古墳が確認され、それを中心に地域社会が展開したと説明できる状況ではないことである。東大和市の公式な歴史概説によれば、縄文時代の最終末から弥生時代にかけて、市内では遺跡が確認されていないとされる。周辺の武蔵村山市などでは弥生時代の遺跡が確認されているため、狭山丘陵全体から人間が消えたという意味ではないが、東大和市域で確認できる資料は大きく減少する。また、古墳時代から奈良時代にかけても、人々の暮らしを示す痕跡は多くない。したがって、市内に巨大古墳があり、強大な豪族が地域を支配していたという物語を事実として記すことはできない。むしろ、資料が少ない時代が存在すること自体が地域史の特徴である。遺跡は、見つかったものだけで過去の全体像を語れるわけではなく、開発や地形改変によって失われた可能性もあれば、そもそも人口が少なかった可能性もある。確認された資料と確認されていない事柄を区別することが、東大和の古代史を理解するうえで欠かせない。
平安時代に再び現れる住居跡と谷戸田の暮らし
資料が少なくなる時期を経て、平安時代になると東大和周辺では再び人々の生活痕跡が増える。市の資料では、多摩湖の湖底やその周辺から当時の家の跡が発見されている。また、このころには灌漑技術の発達により、丘陵の谷を利用した谷戸田がつくられるようになったとされる。狭山丘陵は標高の高い山地ではないが、小さな尾根と谷が複雑に入り組み、湧水や雨水が集まりやすい場所がある。後世の農村景観につながる谷戸の利用を考えるとき、平坦な武蔵野台地だけでなく、丘陵の斜面と谷底の組み合わせを見る必要がある。現在の村山貯水池建設によって水没した谷には、近代まで宅部や後ヶ谷などの生活圏があり、さらに地下にはそれ以前の遺跡が残されていた。東大和の歴史では、現在見えている湖や雑木林だけを自然景観として切り離すのではなく、人が長期間利用してきた土地の上に近代の水道施設が重なったと捉えると、地域の変化を理解しやすい。
中世の東大和を伝える板碑と新田義貞伝承
鎌倉時代から戦国時代にかけての東大和は、分かっていることより分からないことが多い。市の公式資料は、この約四百年間を裏付ける資料が非常に乏しい時期としている。その中で具体的に残るのが板碑である。板碑は中世に造立された石製の供養塔で、武蔵地域では緑泥片岩などを用いたものが多く、死者の供養や生前供養など中世の仏教信仰を知る重要な資料となる。東大和市指定文化財には徳治二年、一三〇七年銘の板碑があり、地域に鎌倉時代の信仰活動が存在したことを物証として示している。円乗院にも市内最古とされる鎌倉時代の板碑が伝わる。一方、新田義貞が元弘三年、一三三三年に鎌倉幕府を攻めた際、多摩地域では分倍河原や久米川などで戦闘が行われたことが知られているが、東大和市公式資料が市内について示しているのは「鎌倉攻めにまつわる伝承」である。東大和市そのものを大規模な古戦場と断定する根拠は確認できない。周辺地域の合戦史と市内伝承を結び付けて考えることはできるが、伝承と発掘成果、同時代史料を同じ強さの証拠として扱わない姿勢が必要である。
狭山丘陵に戦国城郭があったと断定できるのか
狭山丘陵の起伏を見ると、尾根上の平坦地や谷を見下ろす高所を城や砦の跡と考えたくなる。しかし、地形が防御に適して見えることと、実際に中世城郭が存在したことは別問題である。少なくとも東大和市が公開する文化財一覧には、戦国時代の城跡として指定された史跡は掲載されていない。八幡谷戸遺跡や鹿島台遺跡のように年代と性格が示された縄文遺跡、蔵敷庚申塚や蔵敷太子堂跡のように由来が確認された近世史跡とは証拠の水準が異なる。空堀のように見える窪地も、旧道、耕作、造成、自然の谷によって形成された可能性があり、平場も畑や屋敷地の造成による場合がある。北条氏の勢力が戦国期の武蔵国に広く及んでいたことから、東大和周辺も無関係ではなかったと考えられるが、それだけで市内の特定地点を北条方の砦と呼ぶことはできない。城郭を探す散策では、想像を楽しむことと史跡として確認された事実を分け、案内板や発掘報告、自治体資料に根拠があるかを確かめたい。
江戸時代の村と青梅街道がつくった交通の骨格
東大和の地域像が具体的に見えやすくなるのは江戸時代である。市の歴史資料では、江戸城築城などに用いる石灰を青梅方面から運ぶ道として青梅街道が整えられ、江戸との交通が活発になったとされる。炭や薪を江戸へ運ぶ馬も飼われ、地域は農業だけで完結するのではなく、大都市江戸との物流に組み込まれていった。芋窪、蔵敷、高木、奈良橋、清水、宅部、後ヶ谷など、後の東大和市につながる村々の基礎もこの時期に形づくられた。現在、蔵敷一丁目には東京都指定旧跡の蔵敷高札場が残る。高札場は幕府や代官所からの法令や告知を木札に記して掲げた場所で、通常は村の名主宅前など人の目に触れやすい地点に置かれた。明治以降、多くが取り壊されたが、市内では蔵敷高札場が残されている。近くには市指定史跡の蔵敷庚申塚や蔵敷太子堂跡もあり、現在の道路を歩きながら、信仰、行政、交通が一つの村落空間に重なっていたことを確かめられる。
幕末の蔵敷調練場跡に残る農兵の記憶
武将や合戦の話を求めるなら、東大和市内で具体的な場所と制度を確認できる例として、むしろ幕末の蔵敷調練場跡が重要である。文久三年、一八六三年、韮山代官江川太郎左衛門の支配下では、治安維持や百姓一揆への対応などを目的として村役人級の農民が農兵に編成され、小銃を貸与されて軍事訓練を行った。市指定旧跡の蔵敷調練場跡は、その訓練が行われた場所として伝えられている。ここでは中世武将の城跡のような目立つ構造物が残っているわけではないが、幕末社会が軍事的緊張の中にあったことを地域の具体的な土地から理解できる。近くには高札場、庚申塚、太子堂跡があり、東大和市公式のウォーキングマップでも上北台駅からこれらを巡って郷土博物館へ向かうコースが設定されている。合戦場の迫力を想像するより、村人が日常生活を送りながら武器の訓練にも組み込まれていった現実を見る方が、地域の歴史を具体的に捉えられる。
板碑・石造物・旧道から地域のつながりを読む
東大和の歴史を歩くうえでは、目立つ遺跡だけでなく、板碑、庚申塔、道標、寺社、旧道の位置関係を見ることも重要である。たとえば蔵敷庚申塚には、明和元年、一七六四年の庚申待供養塔、文政八年、一八二五年の馬頭観世音、霊場巡拝供養塔、道しるべなどが集められている。これらは戦国武将の活動を直接示す資料ではないが、村人の信仰と移動、街道や集落間の往来を考える具体的な材料になる。また、清水には元禄三年、一六九〇年造立の名号塔婆があり、清水村だけでなく宅部村、杉本村、林村、日向村、境村、廻田村、荒幡村、野口村、菩提木村という周辺の村名が刻まれている。これは念仏講を通じて複数の村が結び付いていたことを示す資料で、現在の市境を越えた生活圏を考える手掛かりになる。東大和の過去を理解する際には、現在の行政区域だけで歴史を切り取らず、東村山、武蔵村山、所沢方面を含む狭山丘陵周辺の道や村との関係を見る必要がある。中世について直接の史料が少ないからこそ、後世の村落配置や信仰資料を中世の事実そのものとみなすのではなく、地域の交通や共同体がどのように形成されていったかを考える補助線として使う姿勢が大切である。
郷土博物館と現地を結んで東大和の歴史を歩く
東大和市の歴史散策では、遺跡そのものが地上に復元されている場所ばかりではないため、最初に東大和市立郷土博物館を訪ねると理解しやすい。博物館は一九九四年に開館し、「狭山丘陵とくらし」を主題として、東大和の歩み、地域の生活、狭山丘陵の自然などを常設展示している。所在地は奈良橋一丁目で、市立狭山緑地にも近い。館内で旧石器時代から近現代までの流れを確認した後、狭山緑地、八幡神社周辺、蔵敷高札場、庚申塚、太子堂跡、調練場跡などを歩けば、展示で見た資料を実際の地形と結び付けられる。多摩湖方面へ足を延ばす場合は、村山貯水池が大正五年、一九一六年に着工し、昭和二年、一九二七年に完成した近代水道施設であることも意識したい。貯水池の完成によって谷あいの景観や集落は大きく変化したため、現在の湖面だけから古代や中世の土地利用を想像することには限界がある。東大和の歴史の魅力は、壮大な城郭や決戦地が残ることではなく、約二万年前の石器、縄文集落、中世の板碑、近世村落の施設、幕末の調練場、近代の貯水池が同じ地域の中に重なっている点にある。確認できる事実と伝承を分けながら歩けば、住宅都市の風景の下に長い時間の積み重なりがあることを具体的に読み取ることができる。