葛飾の記憶を歩く古墳から古戦場へ至る歴史の旅

葛飾の記憶を歩く古墳から古戦場へ至る歴史の旅

葛飾区の歴史は派手な城跡より低地と川の記憶から読み解く

葛飾区の歴史を歩いて確かめるなら、最初に結論をはっきりさせておきたい。この地域は、天守や石垣が目の前に残る観光地ではなく、中川、江戸川、旧水路、自然堤防、微高地、低湿地の上に、古代の集落、古墳、中世の城館、近世の御殿、近代以降の住宅地が重なっている土地である。柴又、青戸、奥戸、立石、金町方面を実際に歩くと、駅前のにぎわいや商店街の印象が強く、古代や戦国の痕跡はすぐには見えてこない。けれども、神社の境内、公園の位置、川へ向かう道の曲がり方、わずかな高低差に注意すると、葛飾がただの下町ではなく、水辺を利用して人と物が行き交った地域だったことが見えてくる。重要なのは、ロマンだけで歴史を大きく語りすぎないことである。葛飾区内で確認できる古代の暮らしは、巨大古墳の威容よりも、住居跡、土器、土錘、畠の跡、埴輪、石室といった発掘資料から読み取る方が正確である。つまり葛飾の歴史探訪は、残っていないものを想像で埋める旅ではなく、残された小さな証拠を一つずつつなぎ、低地に生きた人びとの現実を考える旅である。

御殿山遺跡に見る古墳時代前期の暮らしと水辺の生活

葛飾区の古代を考えるとき、まず手がかりになるのが青戸の御殿山遺跡である。葛飾区史や葛飾区郷土と天文の博物館の解説では、御殿山遺跡は区内で確認されている古墳時代前期の集落跡として紹介されている。ここで大切なのは、この遺跡が単に「古い場所」だということではない。出土した土錘は、網のおもりとして使われた道具であり、中川に近い環境で漁労が行われていたことを示す。畠の跡や土器、住居跡は、魚をとるだけでなく、近くで作物を育て、住まいを構えて暮らしていた人びとの姿を伝えている。さらに、東海や北陸など遠い地域との関係をうかがわせる土器も確認されており、川や海を通じた移動と交流があったと考えられている。ここで「葛飾は古代から栄えた大都市だった」とまで言い切るのは行き過ぎである。確認できるのは、川沿いの低地に暮らす人びとが、漁労、農耕、移動、交易に近い交流を組み合わせながら生活していたという事実である。現地を歩くと、現在の青戸周辺は道路や住宅、学校、公園に囲まれ、古代集落の風景をそのまま見ることはできない。しかし、中川へ向かう地形を意識しながら歩けば、なぜこの場所に人が住み、なぜ水辺の資源が暮らしを支えたのかを想像しやすくなる。

柴又八幡神社古墳と寅さん埴輪が示す六世紀の地域社会

葛飾区で古墳時代を体感しやすい場所として、柴又八幡神社古墳は外せない。柴又駅や帝釈天参道に近い場所にあるため、観光の印象が先に立ちやすいが、歴史的には六世紀末から七世紀初頭ごろに築かれた古墳とされ、石室が区指定史跡として扱われている。墳丘そのものは現在の景観の中で大きく残っているわけではないため、現地で巨大な古墳を期待すると拍子抜けするかもしれない。だが、重要なのは見た目の大きさではなく、石室や出土品が物語る地域社会の存在である。特に有名なのが、帽子をかぶった人物埴輪の頭部で、通称「寅さん埴輪」と呼ばれている。映画の寅さんに似ているという親しみやすい呼び名が広まっているが、歴史資料として見るなら、これは柴又周辺に古墳を築く力を持った有力者層が存在した可能性を示す出土品である。埴輪の表情や帽子の形だけを面白がるのではなく、なぜこの低地に古墳が築かれ、どのような集団が葬送儀礼を行ったのかを考える方が、葛飾の歴史は深くなる。柴又を歩くと、帝釈天、参道、江戸川の土手、住宅地が近い距離でつながっている。そこに古墳の記憶を重ねると、観光地としての柴又とは別に、古代から人の営みが続いてきた水辺の集落としての姿が立ち上がる。

古代葛飾を歩くなら出土品と地形を同時に見る

古墳や遺跡の記事では、つい「神秘」や「壮大なドラマ」という言葉を使いたくなる。しかし、葛飾区の古代史を経験に基づいて歩くなら、出土品と地形を切り離さないことが大切である。御殿山遺跡の土錘は水辺の漁労を、畠の跡は生活の継続を、遠方系の土器は移動や交流を、柴又八幡神社古墳の石室と埴輪は葬送と有力者層の存在を示している。これらを個別の名所として見るだけでは、葛飾の全体像はつかみにくい。中川や江戸川に近い低地では、洪水や湿地のリスクがある一方、魚、舟運、肥沃な土地、人の往来という利点もあった。人びとはその環境を避けるだけでなく、利用しながら暮らしていた。ここに葛飾史の面白さがある。高台に築かれた城や巨大な前方後円墳を見上げる歴史旅とは違い、葛飾では足元の道路、川との距離、公園の場所、神社の境内に残るわずかな手がかりを読み取る必要がある。だからこそ、現地を歩くときは、地図を見ながら川筋を確認し、博物館で出土品を見てから現地へ向かうと理解が深まる。派手さは少ないが、証拠に基づいて想像を積み上げる楽しさがある。

葛西城址は青戸に残る中世葛飾の重要な拠点である

中世から戦国時代の葛飾を考えるうえで中心になるのは、青戸七丁目周辺にあった葛西城である。記事では青砥城や青戸城と呼ばれることもあるが、史跡名や発掘調査の文脈では葛西城址として扱う方が正確である。葛西城は室町時代、上杉氏が戦いや交通の拠点として利用した城とされ、のちに関東へ勢力を広げた後北条氏の支城となった。現在、城の中心部にあたる一帯は環状七号線によって分断され、葛西城址公園と御殿山公園として整備されている。現地に立っても、天守、石垣、復元櫓のようなわかりやすい城郭景観はない。しかし、発掘調査では堀や曲輪に関わる遺構が確認され、幅の広い堀に囲まれた主郭があったと考えられている。ここで注意したいのは、見えないから存在しなかったのではなく、都市化によって地表の痕跡が見えにくくなったという点である。葛西城は中川右岸の自然堤防や湿地を利用した平城であり、水辺の地形そのものが防御と交通の条件になっていた。古代の御殿山遺跡と中世の葛西城址が同じ青戸周辺に重なることは、この土地が長い時間を通じて人の活動に適した場所だったことを示している。

国府台合戦と葛西城を結ぶと戦国の葛飾が見えてくる

葛飾区内だけを歩いていると、戦国時代の大合戦を想像するのは難しい。しかし、江戸川を挟んだ国府台、現在の千葉県市川市側に視野を広げると、葛西城の軍事的な意味がはっきりしてくる。国府台合戦は、天文七年の第一次合戦、永禄七年を中心とする第二次合戦として説明されることが多く、北条氏と里見氏、足利義明、太田氏などが関わった東国の重要な戦いである。主戦場は現在の市川市国府台周辺だが、葛飾区立図書館のレファレンスでも、葛飾周辺を戦場とした大規模な合戦として国府台合戦が挙げられ、北条軍が葛西城を前線基地としていたことが紹介されている。つまり、葛飾は合戦の中心地そのものというより、江戸川両岸の軍事行動を支える拠点だったと見る方が誤解が少ない。葛西城から江戸川方面へ目を向けると、川を渡る、浅瀬を押さえる、兵を動かす、物資を運ぶという実務が戦の結果を左右したことが想像できる。武将の名前だけを並べると歴史は派手に見えるが、実際の戦国の現場では、川、水路、湿地、道、城の位置がきわめて重要だった。葛飾の戦国史は、刀や合戦の勇壮さだけでなく、水辺をどう支配するかという現実的な問題として読むべきである。

葛西城の発掘資料は暮らしと戦いの両方を伝えている

葛西城址で注目したいのは、城が軍事施設であると同時に、人が暮らし、物が集まり、政治や交通の機能を担った場所だったという点である。発掘調査では、中国産の磁器、国産陶器、土器、漆器、下駄などの木製品、武器類が出土したとされる。これらは、単に戦いの道具があったという話にとどまらない。茶碗や陶磁器は、城にいた人びとの生活水準や交流の広がりを示し、木製品は湿地に近い環境だからこそ残りやすかった資料でもある。武器類は戦国期の緊張を伝えるが、同じ場所から日常の器や履物が出ることは、城が生活の場でもあったことを思い出させる。現在の葛西城址公園を歩くと、遊具や緑地、道路の音があり、戦国城郭の緊張感は薄い。だが、そこで「何も残っていない」と判断するのは早い。都市の下に埋もれた堀、曲輪、生活道具の層を想像しながら歩くことで、現代の公園が中世の拠点と地続きであることがわかる。歴史を現地で再現するとは、派手な物語を作ることではなく、発掘資料が示す範囲を守りながら、当時の人がどこで暮らし、どこを守り、どこへ移動したのかを考えることである。

江戸時代の青戸御殿まで見ると土地利用の変化がわかる

葛西城の歴史は、戦国時代で終わらない。天正十八年、豊臣秀吉の小田原攻めによって後北条氏が滅びると、葛西城は城としての役割を終えた。その後、江戸時代のはじめには同じ場所に青戸御殿が設けられ、徳川家康、秀忠、家光の三代が鷹狩の際に利用したと伝えられている。葛飾区史では、当時の葛飾周辺に湿地が多く、鳥が多かったため、鷹狩の場として使われたことが説明されている。ここにも、葛飾の地形が歴史を動かした事実がある。戦国期には湿地や川が防御と交通の条件になり、江戸時代には同じ水辺環境が鷹狩の場として価値を持った。つまり、土地そのものは同じでも、時代によって意味が変わる。青戸御殿は十七世紀後半に取りこわされ、現在は公園や道路の景観となっているため、建物を見学することはできない。それでも、葛西城址公園と御殿山公園を歩くと、古墳時代の集落、中世の城、近世の御殿が同じ土地に重なったことを考えられる。葛飾の歴史を深く理解するには、一つの時代だけでなく、土地の使われ方がどう変化したかを見る視点が欠かせない。

現代の葛飾で古代と戦国を歩くための現実的な順路

葛飾の古墳と古戦場の記憶を一日でたどるなら、無理に区内全域を回るより、柴又と青戸を軸に組み立てると再現しやすい。まず柴又駅周辺で柴又八幡神社古墳を訪ね、石室や埴輪の説明を確認する。時間があれば帝釈天参道や江戸川の土手まで歩き、古代から近世、近現代まで人の流れが続いた場所として柴又を見る。次に青戸へ移動し、葛西城址公園と御殿山公園を歩く。ここでは、地表に城郭が大きく残っていないことを前提に、説明板、公園の位置、環七通りによる分断、中川との距離を確認する。さらに理解を深めるなら、葛飾区郷土と天文の博物館で出土品や区史の展示を見てから現地へ戻るのがよい。博物館で資料を見てから歩くと、土錘、土器、埴輪、陶磁器、木製品が、単なる展示物ではなく、現地の地形と結びついた生活の証拠として見えてくる。注意点は、古戦場という言葉だけで血なまぐさい戦闘場面を期待しすぎないことである。葛飾で見るべきなのは、主戦場そのものより、戦を支えた城、川、道、低地のネットワークである。

葛飾の歴史旅は誇張を削るほど面白くなる

葛飾区の歴史を文章にするとき、最も避けたいのは、確認できない伝承や大げさな言葉で土地を飾りすぎることである。柴又八幡神社古墳、御殿山遺跡、葛西城址、国府台合戦との関係は、それぞれ十分に魅力的な題材だが、すべてを「日本史を動かした中心舞台」と言い切ると、かえって事実の輪郭がぼやける。より正確に言えば、葛飾は古代には水辺の資源を利用した集落が成立し、六世紀ごろには古墳を築く有力者層の存在がうかがえ、中世には葛西城が交通と軍事の拠点となり、戦国期には国府台合戦をめぐる江戸川両岸の攻防と結びついた地域である。この整理の方が、誇張よりもずっと強い。なぜなら、発掘資料、地形、文献、現地の公園や神社を一つずつ確認しながら歩けるからである。現代の葛飾は住宅地、商店街、観光地、道路、公園が混じり合う日常の街である。その足元に、古代の暮らし、中世の城、戦国の緊張、江戸の御殿が重なっている。結論として、葛飾の歴史旅は、派手な遺構を探す旅ではなく、見えにくい証拠を読み解く旅である。その視点を持てば、柴又や青戸の何気ない道も、古墳から古戦場へ至る長い時間の入口に変わる。観光として歩く日も、説明板の一文、川へ抜ける風、社地の静けさを手がかりにすれば、葛飾の歴史は今の暮らしのすぐ隣に立ち上がってくる。

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