多摩川が紡ぐ古代のロマン・狛江市歴史紀行

多摩川が紡ぐ古代のロマン・狛江市歴史紀行

多摩川の恵みが育んだ古代の記憶と巨大古墳群の真実

狛江市の歴史をたどるなら、最初に押さえておきたいのは、現在の住宅地の中に巨大な古墳群がそのまま残っているわけではないという点である。狛江市は東京都多摩地域の東南端、多摩川の左岸に位置し、市域は武蔵野台地の南端部と、多摩川や旧野川などがつくった低地から成り立っている。市内を歩くと全体として平坦に見えるが、台地と低地の境にはわずかな高低差があり、水を得やすく洪水を避けやすい場所が、古くから人々の生活の舞台になった。発掘調査では旧石器時代から近世までの遺構や遺物が確認されており、狛江の歴史は古墳だけで始まるものではない。石器、縄文土器、住居跡、墓、溝、掘立柱建物跡などを時代ごとに読み解くことで、多摩川沿いの小さな市域に長い時間の層が重なっていることが分かる。なかでも狛江を代表するのが、かつて「狛江百塚」と呼ばれた古墳群である。百という数字は必ずしも正確な基数を示すものではなく、古墳が非常に多かったことを表す呼び名と考えるのが適切である。市の資料によれば、狛江の古墳の多くは五世紀半ばから六世紀半ばにかけて集中的に築かれ、その後も七世紀まで造墓活動が続いた。確認されている古墳の大半は円墳で、帆立貝形前方後円墳と考えられる亀塚古墳のような例もある。ただし、市街地化や畑地の開墾、道路や住宅の建設によって墳丘が削られ、現在地上で確認できる古墳は限られている。古墳の分布や規模を考える際は、現存する墳丘だけでなく、発掘調査で見つかった周溝、埴輪片、石室、過去の地図や記録を合わせて判断しなければならない。亀塚古墳は狛江古墳群を考える上で重要な古墳で、墳丘の大部分は失われているものの、発掘調査で得られた副葬品や埴輪などから、五世紀後半頃に築かれた有力者の墓とみられている。出土品には武器や武具、馬具に関係する資料が含まれ、古墳に葬られた人物が地域社会の中で大きな力を持っていたことをうかがわせる。一方で、それだけを根拠に狛江を古代武蔵国全体の政治・軍事中枢と断定することはできない。古墳は被葬者の地位や周辺集団との関係を考える資料ではあるが、統治範囲や具体的な役職までは確認できないためである。兜塚古墳は直径約三十六メートル、高さ約五メートルの円墳で、六世紀半ば頃の築造と推定され、東京都の史跡に指定されている。墳丘の形を比較的よく残すため、住宅地の中で古墳の大きさと立地を実感できる場所である。周囲は一般の生活空間でもあるため、見学では道をふさがず、史跡を傷つけない配慮が欠かせない。猪方小川塚古墳は七世紀半ば頃に築かれた直径約十五メートルの円墳で、発掘調査によって横穴式石室が確認された。狛江で古墳築造が続いた時期を考え直す重要な成果となり、古墳公園として整備された現在は、石室の位置や墳丘の姿を現地で確かめられる。土屋塚古墳では周溝から多量の円筒埴輪が出土し、古墳時代中期の造墓の実態を考える手掛かりになった。白井塚、経塚、東塚、絹山塚なども、墳丘の残り方や公開状況は異なるが、古墳群が市域の一角だけに孤立していたのではなく、台地上に広がっていたことを示している。古墳群の成立に渡来人が関与したという説は以前から語られてきた。狛江という地名と朝鮮半島の高句麗を結び付ける説明も知られているが、地名の由来や古墳築造集団の出自を直接証明する史料は確認されていない。埴輪や副葬品、石室構造に広域交流の影響を読み取ることはできても、被葬者を特定の渡来系集団と断定するには慎重さが必要である。むしろ重要なのは、多摩川が人や物、技術を運ぶ経路となり、狛江の集団が南武蔵や北武蔵、畿内を含む広い地域の動きと無関係ではなかったことである。古墳から見えるのは、孤立した集落ではなく、河川交通と陸上交通を通じて周辺地域と結ばれた社会の姿である。古墳時代の生活を知る資料としては、和泉遺跡や弁財天池遺跡などの集落跡も重要である。和泉遺跡では奈良・平安時代の集落跡が調査され、狛江の名を冠した「和泉式土器」は古墳時代中期の土器編年を考える上で知られている。弁財天池遺跡では古墳時代後期から奈良時代にかけての住居跡が確認され、奈良時代前期の住居が集中的に営まれたことや、高床式建物と考えられる遺構も報告されている。こうした建物を直ちに役所や官衙と決めつけることはできないが、住居だけでなく貯蔵や共同作業に関係する施設を備えた集落だった可能性を示す。土器の形、かまどの位置、柱穴の並び、炭化物などを丁寧に調べることで、古代の人々が多摩川の水や台地の土地を利用し、農耕や手工業を営みながら暮らしていた様子が少しずつ復元されている。

武蔵国を揺るがした中世の動乱と武将たちの足跡

古代の古墳造営が終わった後も、狛江の土地から人の営みが消えたわけではない。奈良・平安時代には集落が営まれ、中世になると村落、寺社、道、耕地の形成が進んだ。ただし、狛江市内がたびたび大軍同士の決戦場になった、あるいは市内に大規模な城郭が存在したと断言できる確実な史料は確認されていない。中世史を語るときは、分倍河原、関戸、深大寺城など周辺地域で起きた戦いや城郭の歴史と、狛江で直接確認された事実を分ける必要がある。元弘三年、一三三三年に新田義貞の軍勢と鎌倉幕府方が戦った分倍河原の合戦は、現在の府中市周辺が主な舞台であり、関戸の戦いは多摩市周辺で行われたとされる。狛江はそれらの戦場そのものと確認されているわけではないが、多摩川沿いに位置するため、鎌倉へ向かう交通や河川の渡河を考える上で無関係ではなかった。多摩川は洪水のたびに流路を変え、橋が常設されない時代には浅瀬や渡しが重要になった。人々は水量や季節を見ながら川を越え、物資を運び、対岸の村々や街道へ移動した。軍勢にとっても渡河点は行動を左右する条件だったが、特定の武将が狛江の河原で大規模な合戦を行ったという物語は、一次史料や発掘成果で裏付けられない限り事実として扱うべきではない。太田道灌と豊島氏、扇谷上杉氏と後北条氏の争いも武蔵国の広い範囲に影響を及ぼしたが、狛江を主要な戦場や軍事拠点とする具体的証拠は乏しい。近隣の深大寺城、世田谷城、小机城、江戸城などを地図上で結ぶと狛江が中間に見えるものの、それだけで軍事要衝だったと結論づけることはできない。地形上の可能性と、文献や遺構で確認できる歴史的事実は区別しなければならないのである。一方、狛江周辺の中世社会を考える手掛かりは、市内の遺跡、寺院に伝わる資料、板碑、古道、地名などに残されている。板碑は中世に造られた石の供養塔で、年号や人名、仏を表す梵字が刻まれたものがあり、地域の人々の信仰や死者供養を知る資料になる。寺社の由緒には中世創建と伝える例があるが、後世にまとめられた縁起も多いため、記載年代と成立年代を確かめて読むことが大切である。狛江氏という名称についても、中世の人物や地域勢力との関係が論じられることはあるが、渡来系豪族の直系、秩父平氏や小山田氏の一族などとする系譜を確定できる史料は十分ではない。市内に堅固な城を築き、多摩川防衛を担った武将集団として描くには根拠が不足している。発掘で掘立柱建物跡や溝が見つかっても、それが武士の居館なのか、一般の集落施設なのか、年代や配置を含めた検討が必要である。「城」「館」「屋敷」といった地名も過去の土地利用を考える手掛かりにはなるが、地名だけで城郭の存在を証明することはできない。狛江の中世史の魅力は、著名武将の激戦を無理に結び付けることではなく、多摩川沿いの村々が変化する政治情勢の中で耕作を続け、寺社を支え、道と渡しを利用して暮らした姿を考えることにある。武蔵国では鎌倉府、関東管領、上杉氏、後北条氏など支配の枠組みが移り変わり、村落は年貢や夫役、交通負担と無縁ではいられなかった。狛江でも、洪水や流路変動に対応しながら田畑を維持し、周辺地域と結び付く生活が続いたと考えられる。華やかな合戦記録が少ないことは歴史が乏しいことを意味しない。名も残らない人々が土地を耕し、水を管理し、信仰と共同体を維持した積み重ねこそ、後の村の骨格を形づくったのである。

悠久の時を超えて現代に蘇る古墳と遺跡の遺構

狛江の歴史を現地で確かめる場合、最も分かりやすい入口は古墳と発掘資料である。ただし、古墳の多くは私有地や住宅地の中にあり、自由に立ち入れる場所は限られている。市の案内では、一般に見学できる古墳として兜塚古墳、亀塚古墳、猪方小川塚古墳などが示されており、公開状況や園路は変更されることがあるため、訪問前に市教育委員会の案内を確認したい。墳丘は樹木に覆われ、説明板を読まなければ普通の小丘に見える場合もある。しかし、周囲の道路面との高さ、墳丘の丸み、周溝が想定される範囲を意識して観察すると、古代の人々が大量の土を運び、墓を築いた労力を具体的に想像できる。亀塚古墳では失われた部分が多いため、現在見える姿だけで本来の規模を判断せず、復元図や出土品の解説を合わせて見る必要がある。猪方小川塚古墳では石室の構造や七世紀の終末期に近い造墓の特徴を学べる。兜塚古墳では比較的残りのよい墳丘から、開発以前の古墳景観を考えられる。土屋塚古墳公園なども含めて歩けば、古墳が一列に整然と並んでいたのではなく、時期や集団の違いを反映しながら台地上に築かれたことが分かる。出土品そのものは常時すべてが公開されているとは限らない。企画展示、文化財講座、刊行された調査報告書などを利用すると、埴輪の破片、土器、鉄製品、石室材など、現地では見えない情報を補える。発掘調査報告書は専門的だが、調査地点、遺構の平面図、土層、出土位置が記録されており、伝説と考古学的事実を分ける上で最も重要な資料の一つである。住宅建設や道路工事に伴う調査で新たな遺構が見つかることもあり、狛江の歴史像は固定されたものではなく、調査成果によって更新され続けている。遺跡は発掘すればそのまま保存できるとは限らず、記録保存の後に建物が建つ場合も多い。そのため、写真、測量図、出土品、報告書が失われた遺構を将来へ伝える役割を担う。見学者に求められるのは、派手な復元建築を期待することではなく、残された小さな高まりや説明板、資料に記録された痕跡から、土地の変化を読み取る姿勢である。

激闘の歴史を秘めた多摩川河畔の古戦場とお城の幻影

多摩川河畔を歩くと、広い河川敷と堤防、対岸の川崎市側の街並みを見渡すことができる。現在の流路や堤防は長い治水の結果であり、古代や中世の景観と同じではない。多摩川は恵みをもたらす一方で洪水を繰り返し、田畑や家屋、寺社の位置に影響を与えた。伊豆美神社は、もとは別の場所に鎮座し、天文十九年、一五五〇年の洪水で流失したため現在地へ移ったと伝えられている。この伝承は、多摩川の流路変動が地域の信仰空間にも影響したことを考える材料になる。近世の狛江には和泉、猪方、岩戸、駒井、覚東、小足立などの村があり、人々は畑作や水田、養蚕などを営んだ。多摩川の水辺では漁や砂利採取、渡しに関わる仕事もあり、村境や用水の管理は日常生活に直結していた。江戸時代の狛江は城下町ではなく、江戸近郊の農村として発展した。屋敷の周囲には防風林が設けられ、茅葺きの民家、土間、納屋、畑が一体となった生活空間が形成された。現在のむいから民家園では、移築復元された古民家を通して、近代まで続いた農家の間取りや道具、季節の仕事を学べる。古墳だけでなく、こうした近世・近代の生活史まで視野に入れると、狛江の土地が一部の豪族や武将だけの舞台ではなかったことが見えてくる。明治以降は行政制度が変わり、村の統合や学校の設置が進んだ。大正末期の一九二七年に小田急線が開通すると、新宿方面との移動が便利になり、駅周辺の住宅地化が進展した。戦後は人口が増え、畑や雑木林の多くが宅地へ変わった。その過程で古墳や遺跡が失われた一方、文化財調査と保存の仕組みも整えられ、兜塚古墳の史跡指定、猪方小川塚古墳の保存、公園整備などが行われてきた。狛江の歴史を歩く際には、古戦場や城の幻影を事実のように重ねるより、確認できる地形、遺構、出土品、石造物、寺社、旧村の道筋を順に結ぶ方が、土地の実像に近づける。古墳の主の名前や中世の館の位置など、現在も確認できない事柄は多い。しかし、不明な点を空想で埋めず、何が分かり、何が分からないかを区別することこそ、歴史紀行の面白さである。狛江市は面積の小ささに反して、旧石器時代から現代までの資料が密集する街である。住宅地の中の墳丘、多摩川の堤防、旧道沿いの寺社、古民家、発掘報告書を組み合わせて歩けば、華やかな伝説に頼らなくても、自然条件と人々の選択が積み重なって現在の街ができたことを実感できる。足元に残る小さな痕跡を丁寧に読むことが、狛江の歴史を未来へ伝える最も確かな方法なのである。

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