町田市の遺跡と古道からたどる地域の歴史

町田市の遺跡と古道からたどる地域の歴史

多摩丘陵と境川・鶴見川の地形から読み解く町田の歩み

町田市の歴史を遺跡や古道からたどるとき、最初に押さえておきたいのは、市内に巨大古墳や戦国城郭、著名な古戦場が連続して残っているわけではないという点である。町田市公式によると、市内には旧石器時代から近代まで約900か所の遺跡があり、そのうち約8割が縄文時代に関係する遺跡とされる。現在の町田駅周辺には商業地が広がる一方、本町田、高ヶ坂、小山、相原、小山田、野津田、三輪などには、多摩丘陵の尾根と谷戸、河川沿いの低地、旧道、寺社、農地が残る。こうした地形の違いは、人々が住居を構え、墓を造り、道を通し、集落や武士の居館を築く場所を選ぶうえで重要だった。発掘された遺構の多くは保存のため埋め戻されているため、現地では復元住居、遺構表示、説明板、地形、展示施設を組み合わせて過去を考えることになる。町田の歴史は、華やかな英雄物語だけではなく、台地の上で暮らした人々、谷戸の水を利用した集落、丘陵を越えた道、地域を支配した武士、近世の村や街道が積み重なってできたものとして見ると理解しやすい。

本町田遺跡で見る縄文時代と弥生時代の暮らし

町田の先史時代を現地で理解しやすい場所の一つが本町田遺跡公園である。本町田遺跡は藤の台団地の造成に先立ち、1967年から1968年に発掘調査が行われ、公園となった区域では縄文時代前期の竪穴住居跡4軒と弥生時代中期の竪穴住居跡7軒が確認された。現在は縄文時代と弥生時代の住居がそれぞれ1軒ずつ復元され、出土資料を紹介するガイダンス施設も設けられている。縄文時代前期の集落は丘陵上の比較的平坦な場所に営まれ、住居跡が広場を囲むように配置され、その外側には土器などを捨てた場所が確認されている。また集落の北側にある谷底には湧水が認められ、居住地と水場の関係を考える手掛かりになる。ここで重要なのは、「水があるから古代人が住んだ」と単純化しないことである。日当たり、地面の安定性、周辺で得られる植物や動物資源、谷との距離など、複数の条件が集落の立地に関わったと考える必要がある。本町田遺跡では縄文と弥生の住居を同じ公園内で比較できるため、住居の形や暮らし方が長い時間の中で変化したことを具体的に想像しやすい。

高ヶ坂石器時代遺跡が示す縄文集落と敷石住居

町田市内で国史跡に指定されている遺跡が高ヶ坂石器時代遺跡である。高ヶ坂の遺跡は牢場遺跡、稲荷山遺跡、八幡平遺跡の3地点からなり、縄文時代の集落の一部を伝えている。1925年、現在の牢場遺跡にあたる畑で、ごぼうが曲がって育つことをきっかけに石敷きの遺構が見つかり、調査によって縄文時代の敷石住居跡であることが明らかになった。町田市によれば、これは日本で初めて確認された縄文時代の敷石住居跡で、翌1926年に国史跡に指定された。牢場遺跡では縄文時代後期の敷石住居跡が覆屋の中で保存され、ガラス越しに見学できる。隣接する稲荷山遺跡では後期から晩期の配石遺構が確認され、実物は埋め戻して保存したうえで地表に遺構の様子が再現されている。谷を隔てた八幡平遺跡では縄文時代中期末ごろの柄鏡形敷石住居跡が見つかり、現在は原寸大の表示によって形を確認できる。3地点は同じ縄文時代でも時期や遺構の性格が異なる。石を敷いた住居が何のために造られ、どのように使われたのかについては研究が続いており、現地では断定的な物語をつくるより、確認された遺構そのものを見ることが大切である。

田端環状積石遺構から考える縄文時代の墓と祭祀

町田市西部の小山町には、東京都指定史跡の田端環状積石遺構がある。1968年に畑の耕作中に発見された遺跡で、縄文時代後期から晩期、約3500年前から2800年前の墓地と祭祀に関係する場所と考えられている。調査では30基の墓からなる集団墓地が確認され、その後、墓地の上に縦約9メートル、横約7メートルの環状積石遺構が造られた。現在見られる石組みは保存のため埋め戻した実物の上に復元したレプリカであり、発掘された石そのものが露出しているわけではない。この点は史跡見学で誤解しやすいため確認しておきたい。遺構の位置からは境川の対岸に広がる相模原台地、その背後の丹沢山地や富士山方面を望むことができる。町田市は冬至の日没時に丹沢山地の蛭ヶ岳付近へ太陽が沈む景観も紹介しているが、この景観と遺構の設計意図を直ちに結び付けることは避けるべきである。考古学では、石の配置、墓の位置、出土品、周辺地形を積み重ねて意味を検討する。田端環状積石遺構は、縄文時代の人々が生活の場所だけでなく、死者を葬り、共同体の儀礼を行う場所を設けていたことを考えるうえで重要な史跡である。

三輪・能ヶ谷の横穴墓群に残る古墳時代終末期の記憶

町田の古墳時代を知る場合、巨大な前方後円墳だけを探すと地域の特徴を見誤る。市域では丘陵の斜面に横穴を掘って墓とした横穴墓群が重要である。三輪町の三輪白坂横穴群では1959年の調査で13基の横穴墓が確認され、7世紀につくられたと推定されている。副葬品として刀子やフラスコ形細頸壺などが発見され、現在は2基をフェンス越しに見学できる。横穴墓は丘陵斜面を利用して造られた墓で、町田市東部から隣接する川崎市・横浜市方面にも類似した遺跡が分布する。つまり現在の市境だけで古代の生活圏を区切ることはできない。三輪・能ヶ谷一帯の丘陵と谷戸を歩くと、墓が平地の中央ではなく斜面に位置している意味を地形から考えられる。一方、森林内の史跡には見学用歩道が十分に整備されていない場所もあり、斜面への立ち入りや横穴内部への進入はできない。史跡は「古墳の中に入る場所」ではなく、残された地形と公開範囲から当時の墓制を読み取る場所として訪ねるのが適切である。

小山田1号遺跡が伝える中世武士の居館

中世の町田を具体的に示す遺跡として、小山田桜台二丁目にある東京都指定史跡小山田1号遺跡が挙げられる。小山田遺跡群は団地造成に伴って1970年代から1980年代初めに発掘され、1号遺跡では有力武士の居館跡と考えられる遺構が確認された。町田市の文化財年報では、南向きの斜面を造成し、斜面を約3メートル削って東西約60メートル、南北約15メートルの平坦面をつくり、そこに掘立柱建物、大型の竪穴状遺構、柵柱列などが築かれたと説明されている。天目茶碗や銭貨なども出土し、遺構は平安時代末から室町時代にかけての土地利用を考える資料となる。現在は遺跡全体を保護材で覆い、発掘調査時の状態が分かるように整備されている。地域には平安末から鎌倉時代に活動した小山田氏の伝承や史料が残り、下小山田町の大泉寺は小山田氏の城址と伝えられている。ただし、寺院境内や丘陵の地形を見ただけで、現存する土塁や空堀のすべてを小山田氏の城郭施設と断定することはできない。中世史を歩く際は、発掘によって確認された小山田1号遺跡と、後世に伝えられた城址伝承を区別して見ることが重要になる。

鎌倉街道と井出の沢古戦場から見る南北朝期の町田

町田市内には鎌倉へ向かう古道の伝承や推定路が残り、中世の交通を考える手掛かりになっている。本町田の菅原神社付近には東京都指定旧跡の井出の沢古戦場がある。井出の沢は中世の歌謡にも名が見え、湧水のある場所として知られていたとされる。建武2年、1335年に起きた中先代の乱では、信濃方面から鎌倉を目指した北条時行の軍と、足利尊氏の弟である足利直義の軍が井出の沢で戦ったと伝えられ、現在は菅原神社境内に石碑と説明板が設けられている。ここは元記事のように町田市内各所を一括して「血煙が舞った古戦場」と描くより、史料と伝承から位置が推定される特定の古戦場として理解した方が正確である。また、本町田には「伝鎌倉井戸」があり、近世以降に鎌倉古道と伝えられてきた道の近くにある井戸として旧跡に位置付けられている。新田義貞の鎌倉攻めと結び付く伝承もあるが、伝承と考古学的に確定した道路遺構は同じではない。中世の道は現代の道路のように一本の線が固定され続けたとは限らず、地形や時代によって経路が変化した可能性も考える必要がある。

境川沿いの相原・小山から見る市境を越えた歴史

町田市西部の相原町や小山町を歩くと、現在の東京都と神奈川県の境界だけでは地域の歴史を説明しにくいことが分かる。境川は市境を流れる区間が長いが、古代や中世の人々にとって現在の行政境界がそのまま生活圏の境目だったわけではない。田端環状積石遺構から相模原台地を望めることも、そのことを考える材料になる。台地の縁、谷へ下りる斜面、水を得やすい場所、尾根を越える道は、行政区分より地形の連続性によって結ばれている。相原周辺では古道や寺社、集落の位置を地図と現地の高低差を照らして見ると、八王子方面、相模原方面、町田中心部へ向かう移動の方向が読み取りやすい。町田の遺跡を市内だけで完結した歴史として見るのではなく、多摩丘陵と相模原台地、境川流域を含む広い地域の交流の中に置くことが重要である。特に先史時代の遺跡や中世の道を考える場合、現代の市境を越えて資料を比較することで、集落や墓、交通路の位置づけをより立体的に理解できる。

近世の村と街道から近代都市へ続く歴史

町田の歴史は中世の武士で終わらない。江戸時代には現在の市域に複数の村があり、農業、林業、養蚕、街道交通などを通じて生活が営まれた。丘陵部の谷戸では水田や畑が開かれ、台地や斜面の雑木林は燃料や肥料の供給源として利用された。幕末から明治期になると、生糸や繭の流通と結び付いた道が重要になり、町田から八王子や横浜方面へ人と物が動いた。現在「絹の道」と呼ばれる道筋を含め、町田周辺は横浜港へ向かう商品流通の広域的なネットワークの一部に組み込まれていった。明治以降は鉄道や道路の整備、住宅地の拡大、戦後の団地造成によって景観が大きく変わったが、その開発に伴う発掘調査によって本町田遺跡や小山田遺跡群など多くの遺跡が記録されたという側面もある。現在の住宅地や公園の下に過去の集落や墓、建物跡が存在することは珍しくない。現代の町田を歩くことは、保存された史跡だけを見ることではなく、開発と文化財保護の関係を知ることでもある。

考古資料室と現地の史跡を組み合わせて歩く

町田の歴史を実物から確かめたい場合は、史跡だけでなく町田市考古資料室を組み合わせると理解しやすい。下小山田町にある考古資料室では、市内の遺跡から出土した土器、土偶、装身具、石器などの考古資料と発掘記録を収蔵し、その一部を展示している。町田市が「縄文のまちだ」をテーマにしているのは、市内約900か所の遺跡のうち縄文時代の遺跡が大きな割合を占めるためである。現地の遺跡では、保存上の理由から遺構が埋め戻されていたり、レプリカや復元表示で示されていたりするため、展示された出土品を見ることで生活の具体像を補える。本町田遺跡、高ヶ坂石器時代遺跡、田端環状積石遺構、小山田1号遺跡、三輪白坂横穴群、井出の沢古戦場は市内の方向が異なり、徒歩だけで一度に巡るには距離がある。縄文時代なら本町田・高ヶ坂、祭祀や墓制なら田端・三輪、中世なら小山田・本町田というようにテーマを分ける方が現実的である。公開状況や施設の開室日は変更されることがあるため、訪問前には町田市公式情報を確認したい。

町田の歴史は地形と発掘資料を重ねて見ると分かる

町田市の歴史の魅力は、特定の英雄や大合戦だけにあるのではない。約3万年前にさかのぼる旧石器時代から縄文、弥生、古墳、中世、近世、近代まで、人々が多摩丘陵と谷戸、河川、台地の条件を利用しながら暮らし続けてきたことにある。本町田遺跡では集落、高ヶ坂では敷石住居、田端では墓地と環状積石遺構、三輪では横穴墓、小山田では武士の居館、井出の沢では中世の戦乱と交通の記憶を確かめられる。それぞれは別々の時代の資料だが、現在の地形の上に重ねると、住む場所、葬る場所、道を通す場所、守りやすい場所がどのように選ばれてきたのかが見えてくる。現地で重要なのは、説明板に書かれた年代や遺構名を確認し、復元部分と実物を区別し、伝承を事実として言い切らないことである。町田駅前の市街地だけを見れば新しい都市に感じられるが、市域を広く歩けば、その下には長い時間の層が残る。史跡と考古資料、古道、寺社、谷戸の景観を丁寧に結び付けることが、町田の地域史を最も確かに理解する方法である。

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