歴史が息づく街・目黒の深層を探る

大都会に眠る古代の記憶と古墳の謎
目黒区の歴史をたどるなら、最初に確認しておきたいのは、現在の住宅地や商業地の地下に巨大な古墳群が広がり、各地に古代豪族の墓が残っているというイメージは正確ではないことである。区内で歴史を具体的に考える手掛かりになるのは、目黒川、呑川、立会川とその支流が刻んだ谷、谷を見下ろす武蔵野台地の縁、そして発掘調査で確認された旧石器時代から近世までの遺跡である。実際に大橋や東山を歩くと、目黒川沿いの低地から高台へ短い距離で標高が変わり、坂道や崖線、湧水の残る場所に出会う。こうした地形は、移動や水の確保、狩猟や採集、住居を構える場所の選択と深く関係していたと考えられる。目黒区の遺跡は建物のように地上へ大きく残るものばかりではなく、道路工事や建築工事に伴う発掘によって、住居跡、炉、墓、土器、石器などが少しずつ確認されてきた。そのため、街を見ただけで遺跡の全体像が分かるわけではなく、調査報告や資料館の展示と現地の地形を組み合わせて考える必要がある。区内を代表する東山貝塚遺跡は、東山二丁目から三丁目にかけての目黒川を望む台地縁辺と斜面に広がる。縄文時代後期から晩期を中心とする集落跡として知られるが、調査では縄文時代中期の竪穴住居跡、弥生時代後期の住居跡や環濠、さらに旧石器時代、古墳時代、平安時代、中世、近世の痕跡も確認されている。貝塚からはハマグリ、アサリ、ヤマトシジミなどの貝殻、クロダイ、アジ、フグ、コイなどの魚骨、イノシシやシカの骨が見つかっている。現在の東山は海から離れているが、縄文海進の時期には目黒川低地の奥まで海水が入り込み、海水産の貝や魚を得られる環境が近かったと考えられている。出土品は、当時の人びとが海や川、台地の林を使い分け、食料を一種類に頼らず生活していたことを示す。東山貝塚公園には復元された竪穴住居があり、崖下からの湧水も見られる。ただし、復元住居は発掘された建物がそのまま残っているのではなく、調査成果を基に生活の様子を理解しやすくした施設である。近くの東山街かど公園では、舗装の色を変えて竪穴住居跡の炉や柱穴の位置が示され、住宅地の下に集落跡が広がっていたことを実感できる。大橋二丁目の大橋遺跡も重要で、旧石器時代から近世までの遺構や遺物が確認され、縄文時代中期の竪穴住居跡は九十軒以上見つかっている。これは一時期に九十軒が同時に建っていたことを意味するとは限らず、建て替えや時期の違いを含む点に注意が必要である。目黒不動遺跡では縄文時代中期の竪穴住居跡十八軒や弥生時代後期の住居跡が確認され、土版や土器づくりに使ったとみられる白色粘土も見つかった。古墳時代については、区内で大塚山古墳と狐塚古墳が遺跡として登録されている。しかし、大塚山古墳は詳しい調査が行われないまま墳丘が削られ、規模や築造時期、埋葬施設の詳細を十分に確認できない。したがって、古墳の存在だけから目黒に強大な豪族政権があったと断定することはできない。一方、氷川遺跡では約千七百年前に当たる古墳時代初頭の竪穴住居跡が二十軒以上と掘立柱建物跡が確認され、区内では貴重な集落資料となっている。壺に保管されたムギかマメの痕跡も見つかり、古墳だけでなく、そこで暮らした人びとの生産と貯蔵に目を向けることの重要性を教えてくれる。古代の目黒を理解する中心は、消えた墳丘を想像で膨らませることではなく、川と台地の関係、住居跡の分布、出土品の年代、調査で分かる範囲と分からない範囲を区別することである。
中世の戦乱と目黒を駆けた武将たち
中世の目黒を語るときも、武将が絶えず駆け回り、多数の城や砦が築かれた地域と考えるのは慎重でなければならない。区内では中世の土器、板碑、道路や集落に関わる痕跡が確認されているが、天守や石垣を備えた城はもちろん、大規模な山城や平城の遺構が明瞭に残っているわけではない。目黒の歴史を現地で読む手掛かりは、鎌倉方面へ通じたと伝わる道筋、寺社に残る石造物、村や郷の名称、周辺領主との関係、そして台地と谷を結ぶ古い坂道である。碑文谷八幡宮に伝わる碑文石には梵字が刻まれ、室町時代のものと鑑定されている。江戸時代の地誌には、この石が鎌倉街道沿いの土中から見つかり、碑文谷という地名の由来になったという説が記されている。ただし、地名の成立はさらに古いとする見方もあり、碑文石だけで由来が確定したわけではない。現地に伝わる説明は、史料で確認できる部分と後世の伝承を分けて受け止める必要がある。寿福寺には弘安二年、1279年の年号を持つ板碑が伝わり、区内に残るものとして古い例とされる。板碑は中世に供養や追善のため造立された石塔の一種で、武将だけでなく地域の信仰や家族の祈りを考える資料になる。華々しい合戦の記録より、このような石造物の方が、当時の人びとの生活と宗教意識を具体的に伝える場合が多い。戦国時代の目黒区南西部に当たる衾村や碑文谷郷一帯は、世田谷城を拠点とした吉良氏の勢力圏に含まれていたとされる。奥沢城主の娘常盤姫と吉良頼康をめぐる鷺草伝説も地域に伝わるが、物語の細部をそのまま史実とみなすことはできない。伝説は、地域が吉良氏や奥沢城との関係をどのように記憶してきたかを知る資料として読むのが適切である。また、戦国末期には関東へ勢力を広げた後北条氏の支配体制が周辺にも及んだが、目黒区内で大規模な攻城戦が確認されているわけではない。地形に起伏があるからといって、すべての高台を砦跡、すべての急坂を防衛線と説明することもできない。谷を見下ろす場所は見通しに優れる一方、集落、畑、寺社、墓地、道としても利用される。軍事利用を論じるには、土塁、空堀、曲輪、文献記録、発掘成果など複数の根拠が必要である。目黒区では、中世城郭の存在を前提に街の起伏を読むより、道と村の形成を中心に考える方が実態に近い。現在の中目黒、上目黒、下目黒、碑文谷、衾などは、近世以前から続く地名や村落の歴史とつながるが、現在の町界と昔の村境は同じではない。古道も道路改修や宅地化で経路が変わり、一本の確定した鎌倉街道がそのまま残るわけではない。現地を歩く場合は、古い道標、寺社の位置、谷へ下る坂、尾根筋の道路を見ながら、地図と文化財案内を照合すると理解しやすい。中世の人びとは、戦のためだけに移動したのではなく、農作物や薪炭を運び、寺社へ参詣し、近隣の市や村と行き来した。目黒川や呑川の低地は水田や湿地として利用され、台地上には畑や集落が置かれたと考えられる。こうした日常的な土地利用の上に、領主の支配、年貢、寺社の信仰、交通が重なっていた。目黒の中世史を深く理解するには、著名な武将の逸話を並べるより、確実に年代を読める板碑、発掘された中世土器、地誌に記された村名、寺社の由緒を一つずつ確認する方が有効である。源頼朝や新田義貞が区内の特定地点を通過した、あるいは戦勝祈願をしたという話は、個別の裏付けがない限り断定できない。地名や伝説は魅力的だが、それだけで合戦や武将の行動を証明するものではない。確認できない部分を空想で補わず、史料が語る範囲を守ることによって、むしろ目黒が中世の武蔵国南部にある村落として、周辺の道、領主、寺社とどのようにつながっていたかが見えてくる。
古戦場の息吹と現代に語り継がれる遺構
目黒区の歴史を古戦場という言葉でまとめる場合、最も大きな問題は、区内で何度も大規模な合戦が行われたとする確実な根拠が確認できないことである。新田義貞の鎌倉攻めは元弘三年、1333年に武蔵国各地を進んだ軍事行動だが、主要な戦闘として知られる分倍河原や関戸などは現在の府中市、多摩市周辺であり、目黒区内を激戦地と断定することはできない。武将の戦勝祈願、刀剣の奉納、馬の蹄の音といった話が寺社や地域の伝承に残ることはあるが、伝承の存在と戦闘の事実は同じではない。社宝や古文書が現存する場合でも、制作年代、奉納者、伝来の経緯を確認して初めて歴史資料として位置づけられる。したがって、目黒を歩く際は、古戦場の痕跡を探すより、各時代の土地利用が同じ場所に重なっていることに注目した方が、街の歴史を具体的に理解できる。東山では縄文集落の上に近世以降の土地利用が重なり、明治以降には駒場や東山周辺に軍事施設が設けられた。駒場野には明治二十四年、1891年に騎兵部隊が移転し、翌年には輜重兵部隊の兵営が置かれ、その北側には練兵場が整備された。現在の東山中学校、三宿病院、池尻小学校周辺を含む一帯には、近代の軍用地として使われた歴史がある。これは中世の城砦とは異なるが、目黒の地形と広い土地が軍事目的に利用された具体例である。遺跡調査では駒沢練兵場に関係する近現代の痕跡も確認され、同じ場所から縄文時代、弥生時代、古代、中世、近代の資料が見つかることがある。地層が示すのは、ある時代の物語だけではなく、人びとが土地の使い方を繰り返し変えてきた事実である。江戸時代の目黒を特徴づける要素の一つは、幕府の鷹場である。八代将軍徳川吉宗の時代、享保元年、1716年に鷹狩りが再開され、江戸周辺の鷹場は葛西、岩淵、戸田、中野、品川、目黒の六筋に分けられた。目黒筋の村々では、鷹狩りに備えて鳥獣の保護や道の整備、役人への対応などが求められ、農民にとっては行楽の見物ではなく負担を伴う制度でもあった。上目黒の寿福寺墓地には、獲物を餌付けしておく綱差役を代々務めた川井家の墓があり、同家の古文書は幕府の鷹狩りと地域支配を知る資料として区指定文化財になっている。駒場という地名や馬頭観音、馬にまつわる民話も、農耕、運搬、鷹狩り、近代の騎兵施設など、目黒と馬との長い関係を考える入口になる。ただし、地名を名馬の伝説だけで説明したり、馬に関する石造物を武将の合戦と直結させたりするのは適切ではない。江戸時代には目黒不動尊への参詣も盛んになり、門前や行楽の道が発達した。目黒不動尊周辺の台地には、寺院の歴史よりはるかに古い縄文・弥生時代の遺跡があるため、一か所で先史時代の生活、近世の信仰、現在の住宅地を重ねて考えられる。現地では、急な石段、境内の高低差、目黒川へ下る道を実際に歩くと、地図だけでは分かりにくい台地と谷の関係を体感できる。ただし、坂や崖が昔から同じ形で残っているとは限らず、道路工事、河川改修、宅地造成によって景観は変化している。目黒川も現在は護岸が整備され、かつての蛇行や低湿地の姿をそのまま見ることはできない。歴史散策では、現在見える景色を過去へ直接投影せず、古地図、発掘地点、河川の旧流路、寺社の位置を照らし合わせる姿勢が必要である。具体的な歩き方としては、池尻大橋駅から東山貝塚公園と東山街かど公園を見学し、目黒川沿いへ下って台地との高低差を確かめる方法がある。別の日には、めぐろ歴史資料館で区内の遺跡や出土品を確認してから、中目黒八幡神社、祐天寺、目黒不動尊周辺を歩くと、先史時代から近世までの違いを整理しやすい。公園の復元施設、寺社の由緒書、道路脇の案内板は理解の助けになるが、説明の更新や公開状況の変更もあるため、訪問前に公式情報を確認したい。さらに、遺跡名が付いた場所でも遺構が常時公開されているとは限らない。多くは調査後に保護のため埋め戻され、地表には案内板や舗装表示だけが残る。これは価値が失われたという意味ではなく、地下の資料を将来の調査へ残しながら、現在の都市生活と両立させる保存方法である。見学者には、私有地へ入らず、発掘地点と復元展示を混同せず、出土品の保管先や調査年代まで確認する姿勢が求められる。目黒の歴史の魅力は、壮大な城や決戦の跡が連続して残ることではない。住宅、学校、公園、寺社の下や周辺から、異なる時代の生活痕跡が断片的に見つかり、それらを地形と結びつけることで街の成り立ちが見えてくる点にある。古墳の規模や武将の行動など確認できないことは確認できないと区別し、発掘成果、年号のある石造物、古文書、地誌を手掛かりに歩けば、日常の景色は過度な伝説に頼らなくても十分に奥深い。目黒の深層とは、隠された英雄物語ではなく、水辺と台地を選んで暮らした人びと、村を維持した農民、寺社を支えた住民、鷹場や軍用地の負担を受けた地域社会が積み重ねた現実の歴史なのである。