港区に眠る城と古墳の記憶

摩天楼の影に潜む古代のロマンと芝丸山古墳の衝撃
港区の歴史を城や古墳からたどるなら、最初に確認しておきたいのは、現在の高層ビル街の地下に巨大な古墳群や多数の戦国城郭がそのまま眠っているわけではないという点である。区内で実物を見ながら古墳時代を考えられる代表的な場所は、芝公園四丁目に残る芝丸山古墳である。東京都指定史跡の前方後円墳で、現状の全長は約百六メートル、後円部の直径は約六十四メートルとされ、都内に残る前方後円墳の中でも最大規模に位置づけられている。築造時期は四世紀末から五世紀前半頃とみる説明があり、古い案内で見られる五世紀後半という断定には注意が必要である。墳丘は長い年月の造成や削平を受け、前方部の先端も失われているため、現在目にする姿を築造当初の完全な形と考えることはできない。明治三十一年、一八九八年には人類学者の坪井正五郎が調査したが、すでに盗掘を受けており、埋葬施設や副葬品の全容は確認できなかった。そのため、被葬者の名前、具体的な勢力範囲、政治的な役職を特定する資料は残っていない。ただし、この規模の墳墓を築くには多くの労働力と物資の調達が必要であり、古墳時代の東京湾西岸に有力な首長層が存在したことを考える重要な手掛かりになる。芝丸山古墳の周囲には、かつて十基余りの円墳が点在していたとされるが、都市化によって多くが失われた。現在、墳丘の南側付近には小型の円墳とされる遺構が残り、単独の巨大古墳だけでなく、複数の墓がまとまっていた可能性を伝えている。現地を歩く際は、東京タワーを背景にした印象だけでなく、台地の縁と海側の低地との高低差に注目したい。古墳が造られた当時、現在の芝浦や港南の大部分は後世の埋立地ではなく、海岸線は今より内陸側にあった。墳丘が位置する高まりからは、東京湾や海辺に通じる低地を意識できたと考えられるが、古代の被葬者が実際に見た景色を現在の眺望からそのまま再現することはできない。樹木、道路、増上寺周辺の造成、近代以降の公園整備によって地形の見え方が変わっているからである。芝丸山古墳の価値は、神秘的な力や埋蔵された財宝にあるのではない。地表に残る墳丘、周囲の地形、失われた円墳群、発掘と記録の限界を組み合わせ、港区域に暮らした古代の人々を資料から考えられる点にある。港区内では、旧石器時代、縄文時代、弥生時代、古墳時代の遺物や遺構が各地の発掘調査で確認されているが、再開発現場は自由に見学できる場所ではなく、調査成果も遺跡ごとに異なる。したがって、芝丸山古墳だけを見て港区全域が古代豪族の巨大都市だったと結論づけるのは行き過ぎである。また、古墳の大きさを体感するときは、樹木に覆われた現在の遊歩道だけで形を判断しない方がよい。前方後円墳は、上から見た平面形によって前方部と後円部を区別するが、地上からは斜面や植栽のため輪郭が分かりにくい。案内図で墳丘の向きを確かめ、低い位置から斜面を見た後に上へ進むと、高まりが自然の丘ではなく人工的に整えられた墓であることを理解しやすい。一方、現在の段差や園路のすべてが古墳築造時の構造ではなく、公園整備による改変も含まれる。古墳から埴輪や副葬品が豊富に出土したという紹介も見かけるが、芝丸山古墳では盗掘と改変の影響が大きく、被葬者像を豪華な出土品から復元できる状況ではない。分からない点を残したまま、規模、立地、周辺古墳との関係から位置づけることが、考古学的には重要である。まず墳丘を一周し、前方部と後円部の位置、削られた部分、周囲の斜面を確かめ、その後に港区立郷土歴史館などの展示や刊行物で出土資料を補うと、地形と考古資料の関係をより具体的に理解できる。
戦国武将たちが駆け抜けた戦乱の舞台と幻の赤坂城
中世の港区を語るときは、「赤坂城」という名称を実在が確定した戦国城郭として扱わないことが重要である。現在の赤坂周辺に、石垣、堀、曲輪、城主を示す同時代史料がそろった城跡が確認されているわけではなく、港区の公的な文化財案内でも、赤坂城が主要な城郭遺跡として位置づけられているとは確認できない。地名の印象、坂と谷が多い地形、後世の伝承を結びつければ城の物語は作りやすいが、天然の要害に見える土地が必ず城だったとは限らない。赤坂、麻布、六本木、虎ノ門一帯は武蔵野台地の東端にあたり、台地を谷が刻むため、短い距離でも大きな高低差がある。この地形は中世の道、集落、寺社、耕地の配置を考える手掛かりにはなるが、坂道をそのまま防衛線、谷をそのまま堀跡と断定することはできない。港区域が戦国期の関東情勢と無関係だったわけでもない。十五世紀から十六世紀の南関東では、扇谷上杉氏、山内上杉氏、古河公方、後北条氏などが勢力を争い、江戸城や品川湊、街道、海上交通の支配が政治と軍事の重要課題になった。現在の港区は江戸城の南側と品川方面を結ぶ位置にあり、人や物資が移動する経路の一部だったと考えられる。しかし、北条氏、武田氏、徳川家康が赤坂城を巡って局地戦を重ねたという具体的な筋書きは、確認できる史料に基づいて慎重に検討しなければならない。とくに武田氏が港区域の城を直接攻防したとする説明や、名高い武将が現在の六本木の坂を騎馬で駆け抜けたという描写は、事実として提示できない。徳川家康が天正十八年、一五九〇年に江戸へ入った後、区域の土地利用は江戸城下の拡大とともに大きく変化したが、それ以前の景観を江戸時代の屋敷配置から逆算することにも限界がある。中世の痕跡を確かめるには、架空の城郭像を追うより、古道、寺社の由緒、谷と台地の境、発掘調査で確認された溝や建物跡、文献に現れる村や地名を一つずつ検討する方が確実である。例えば、麻布や三田、高輪、芝などは、近世以前から交通や集落の形成と関係した地域だが、現在の町名や道路が中世と完全に一致するわけではない。再開発で地表の景観が変わっても、地下には過去の生活面が重なって残る場合があり、工事に先立つ埋蔵文化財調査によって井戸、溝、陶磁器、土器、建物跡などが見つかることがある。ただし、発掘された溝をすべて城の堀、焼土をすべて合戦の痕跡と解釈することはできず、年代、出土品、周辺の遺構、文献史料を合わせた判断が必要になる。「幻の赤坂城」という言葉は、史実として断定する名称ではなく、都市の地形から中世を想像する入口として限定的に使うべきである。歩くなら、赤坂見附から赤坂、六本木方面へ進み、坂の連続と谷底の道路を観察すると、台地の端に造られた現代都市の骨格が見えてくる。ただし、その体験から得られるのは、城があった証明ではなく、なぜ城郭伝承が生まれやすい地形なのかを考える材料である。中世を現地で考える場合、現在の坂名も慎重に扱いたい。港区には乃木坂、鳥居坂、仙台坂、狸穴坂、三分坂など多くの坂名が残るが、その名称が成立した時期や由来は一様ではなく、戦国期から同じ名で呼ばれていたとは限らない。江戸時代の大名屋敷、寺社、町の通称に由来する坂も多いため、坂名だけを根拠に中世の軍事施設を推定することはできない。古地図を利用する際も、江戸後期の切絵図に描かれた屋敷境界を数百年前の戦国期へ直接当てはめるのは危険である。年代の異なる地図を重ね、谷の位置や尾根の方向など変わりにくい要素と、道路や地名など変化しやすい要素を分けて読む必要がある。この方法を取れば、城の存在を無理に証明しなくても、交通路や集落が地形に制約されて形成された過程を考察できる。港区の中世史の面白さは、有名武将の逸話を増幅することではなく、証拠が少ない時代を、地形、考古学、文献の差を意識しながら復元していく過程にある。
江戸の礎を築いた武家屋敷の遺構と消えない古戦場の息吹
江戸時代に入ると、現在の港区域は江戸城の南側に広がる武家地、寺社地、町人地、農村、海岸部として再編された。大名屋敷が多く置かれたことは確かだが、区域全体が一枚の巨大な防衛拠点だったと単純化するのは正確ではない。屋敷には上屋敷、中屋敷、下屋敷などがあり、江戸城への登城、居住、藩政、物資の保管、庭園、避難先など役割が異なった。明治以降の官有地化、道路整備、鉄道敷設、震災復興、戦災、再開発によって多くの建物は失われ、現在確認できるものも、庭園の地形、石垣の一部、門、坂名、発掘された礎石や井戸、絵図との対応など断片的である。現代の石垣や塀を見ただけで江戸時代の大名屋敷遺構と決めつけず、文化財指定や調査報告を確認する必要がある。港区で江戸の南の境界を具体的に感じられる場所の一つが高輪大木戸跡である。宝永七年、一七一〇年、東海道の両側に石垣と木戸が設けられ、江戸府内への出入口として交通の管理に用いられた。現在は国道十五号沿いに石垣の一部が残り、昭和三年、一九二八年に国の史跡に指定された。残存部分だけを見ると小規模に感じられるが、道路の両側に施設があった当時の幅と海岸線の位置を意識すると、江戸の境界施設としての意味が理解しやすい。夜間の閉門や治安維持に関する説明は知られているものの、運用は時期によって変化したため、常に完全封鎖されていた門として想像するのは避けたい。近くの泉岳寺は赤穂義士の墓所で知られるが、元禄赤穂事件の討入り現場は本所の吉良邸であり、泉岳寺周辺をその合戦の最前線と表現するのは誤りである。高輪で実際に武力衝突の舞台となった場所としては東禅寺がある。安政六年、一八五九年からイギリスの総領事館、のち公使館として使われ、文久元年、一八六一年五月二十八日夜には水戸浪士らが襲撃した。警備に当たった幕臣や諸藩士が応戦し、双方に死傷者が出て、公使館員も負傷した。翌文久二年にも警備側の藩士による襲撃事件が起きており、開国後の攘夷運動と外交施設の警備が抱えた緊張を示している。ただし、境内のどこに誰が立ち、どの方向へ動いたかを現在の景観だけから完全に再現することはできない。寺院は現在も信仰と法務の場であるため、見学では法要、墓地、立入制限、撮影への配慮が必要である。幕末の港区域では、慶応三年、一八六七年の薩摩藩邸焼き討ち事件も起きた。旧幕府側の部隊が芝の薩摩藩邸などを攻撃し、戊辰戦争へ向かう政治的緊張を高めた事件である。これは港区に残る数少ない明確な市街戦の記憶だが、現在の交差点すべてを古戦場とみなす根拠にはならない。事件の範囲、屋敷境界、道路は当時と現在で異なり、説明板、古地図、研究成果を照合して見る必要がある。武家屋敷跡を巡る際には、現在残る庭園にも注目できる。旧大名家や宮家、実業家の邸宅を経て保存された庭園には、池、斜面、築山、樹林が残る場合があるが、江戸時代の姿が完全に保存されているとは限らない。所有者の交代、震災、戦災、近代の造園によって構成は変化しているため、「大名が見た景色がそのまま残る」と表現するのは避けるべきである。それでも、広い屋敷地が台地と谷を取り込み、湧水や池を利用していたことを考える材料にはなる。港区立郷土歴史館では、発掘資料、古文書、絵図、生活用具など異なる資料を比較でき、現地で見た石垣や坂をどの時代に位置づけるべきか確認する助けになる。史跡を歩いた後に展示を見る方法だけでなく、先に資料で場所を把握してから現地へ向かう方法も有効である。さらに港区の歴史を江戸で終わらせない遺構として、高輪築堤跡がある。明治五年、一八七二年に新橋・横浜間で日本初の鉄道が開業した際、高輪海岸では海上に堤を築いて線路を通した。大正期以降の埋立てで見えなくなったが、品川駅周辺の再開発に伴い二〇一九年以降に石垣などが確認され、鉄道史、土木史、考古学を結ぶ遺構として注目された。古墳、城郭伝承、武家屋敷、大木戸、外交事件、鉄道遺構は、同じ種類の歴史資料ではない。墳丘のように地形として残るもの、文献と発掘で位置を検討するもの、事件の舞台となった建物、再発見された土木構造物では、確かめ方が異なる。港区を歩く際は、芝丸山古墳、高輪大木戸跡、東禅寺、郷土歴史館などを一日で急いで結ぶより、芝地区と高輪地区を分け、現地の説明と資料を照らし合わせる方が理解しやすい。なお、史跡や寺院の公開状況、工事による通行経路、展示内容は変わることがある。現地訪問前には東京都、港区、各施設の公式案内で開園日、入館方法、撮影条件を確認したい。芝丸山古墳は屋外の史跡だが、雨天時は斜面や階段が滑りやすく、墳丘保護のため園路外へ踏み込まないことが基本となる。高輪大木戸跡は交通量の多い国道沿いにあり、遺構を眺める際は歩道上で立ち止まる位置に注意が必要である。歴史を体験するとは、想像を事実に置き換えることではない。現場の大きさ、音、傾斜、周囲との距離を自分で確かめ、その観察と史料に書かれた事実を分けて記録することで、都市の過去をより正確に捉えられる。港区の歴史的魅力は、摩天楼の下に英雄と合戦の物語が無数に隠されていることではなく、土地の改変が激しい都市でありながら、古代の墳丘、江戸の境界、幕末外交の衝突、近代鉄道の構造物が異なる形で残り、それぞれの証拠の強さを比べながら都市の変化を読めることにある。