上野の丘と低地から読む台東区の歴史

台東区の歴史は古墳と戦場を誇張せず地形から確かめる
台東区の歴史を歩くなら、最初に結論を明確にしておきたい。現在の区内には、古代から幕末までの多様な痕跡が残るが、巨大な古墳群や戦国城郭、幾度もの大合戦が密集していたと考えるのは正確ではない。歴史を読み解く鍵は、上野・谷中の台地と浅草・蔵前・下谷の低地、発掘された住居跡や土器、寛永寺の旧境内、慶応四年の上野戦争である。上野駅周辺を歩くと、公園側へ向かう道が上り、浅草口側へ出れば平坦な市街地が続く。この高低差は単なる景観の変化ではない。水はけと見通しのよい台地は古くから生活や墓域に利用され、低地は川や湿地、後世の造成と深く関わって発展した。台東区の過去は、英雄や戦乱の物語だけでなく、人々が地形に合わせて住み、祈り、働き、町を作り直してきた積み重ねとして見る方が、現地の風景と史料の両方に近づける。
上野忍岡遺跡群と摺鉢山古墳が伝える古代の暮らし
上野恩賜公園を中心とする一帯は、上野忍岡遺跡群と呼ばれる大きな遺跡の範囲に含まれる。台東区の資料によれば、この地域では旧石器時代から近世までの遺構や遺物が確認され、台地の縁辺には近世以前の集落が分布していた。上野駅東西自由通路、現在のパンダ橋の建設に伴って一九九八年に行われた発掘調査では、縄文時代前期、弥生時代末期、古墳時代後期、奈良・平安時代の住居跡が見つかった。古墳時代後期の竪穴住居跡の一つは約四メートル四方で、火災によって焼けた屋根材が炭化した状態で残り、土師器などの遺物も出土している。これは「上野に数千年間、同じ集落が途切れず存在した」という意味ではない。時代ごとに土地の利用が変化しながら、人が繰り返し台地とその縁を選んだことを示す資料である。地下には住居、道、墓所、寺院施設が異なる層となって残されてきた。
上野公園内で古代の地形を比較的わかりやすく感じられる場所が摺鉢山古墳である。台東区の公式資料では、現存する墳丘は全長約七十メートル、後円部の直径約四十メートルで、西に前方部を向けた前方後円墳とされる。埴輪片や須恵器が出土し、約千五百年前に築かれたと推測されている。築造年代を五世紀後半や六世紀と細かく断定する説明も見られるが、出土状況や過去の改変を考えると、公式資料のように幅を持たせて理解する方が安全である。かつては東京国立博物館の構内付近まで古墳群が形成されていたとされ、現在地で形をとどめるのは摺鉢山古墳だけである。ただし、墳丘は後世に削られたり利用されたりしており、築造当初の姿が完全に保存されているわけではない。階段を上り、周囲の樹木や園路との高低差を見ると、古墳が台地上に築かれたことは実感できるが、被葬者の名や勢力範囲は確認できない。「上野を支配した王の墓」と物語化するより、墳形、規模、出土品、周辺の集落跡を手掛かりに、古墳時代の地域社会を慎重に考えるべきである。
浅草と下谷の低地は水辺と都市形成の歴史から見る
台東区の古い歴史は上野の丘だけにあるわけではない。区の遺跡一覧には浅草寺遺跡、駒形遺跡、元浅草遺跡、入谷遺跡、上野広小路遺跡、池之端七軒町遺跡などが挙げられている。浅草や蔵前周辺は現在ほぼ平坦だが、古代から同じ地表が安定して続いた場所とは限らない。隅田川に近い低地では、洪水や土砂の堆積、水路の変化、埋め立て、町の造成が重なり、古い遺構が現在の地面より深い位置から見つかることがある。そのため、地上に目立つ古墳や城跡が少ないことを、歴史が薄い証拠とは考えられない。発掘調査で出土する土器、井戸、溝、建物跡、寺院関係の遺構は、土地利用がどのように変化したかを知る手掛かりになる。
浅草寺は寺伝では推古天皇三十六年にあたる六二八年の起源を伝えるが、寺伝上の年代と考古学的に確認できる事実は分けて扱う必要がある。確実なのは、浅草が隅田川の水運や街道、人の往来と結び付き、近世には大規模な門前町と娯楽の町へ発展したことである。川辺は交通に有利な一方、水害の危険も抱えていた。低地の町は一度完成して終わったのではなく、火災、洪水、震災、戦災、区画整理を経て何度も作り直されている。現在の道路が古い道筋を部分的に受け継ぐ場合はあるが、町並みを見ただけで古代や中世の景観を復元することはできない。現地では寺社の由緒書だけでなく、地形図、発掘報告、旧町名、橋や水路の記録を重ねて見ると、観光地の下にある土地の履歴が明確になる。
戦国時代の台東区に浅草城があったとは確認できない
中世から戦国時代の台東区を語る際には、史料で確認できる範囲と伝承を区別する必要がある。浅草に「浅草城」という城郭があり、後北条氏の軍事拠点として大規模な合戦が行われたという説明は、少なくとも台東区が公開する遺跡や文化財の基本資料からは確認できない。現在の区内に、土塁、空堀、曲輪などを備えた戦国城郭の遺構が明瞭に残っているわけでもない。隅田川の渡河点や水運が政治・軍事上重要だったことは十分に考えられるが、重要な交通路であったことと、そこに城が実在したことは同じではない。また、豊臣秀吉の小田原攻めに伴う関東各地の戦闘を、そのまま浅草や上野の激戦に結び付けることもできない。小田原征伐は天正十八年の大規模な軍事行動であり、武蔵国内でも複数の城が攻略されたが、台東区内で激しい前哨戦があったと断定できる根拠は確認できない。
では、中世の台東区は語る材料がないのかというと、そうではない。発掘調査では中世の陶磁器などが確認され、寺社の縁起、地名、交通路、河川の利用から地域の変化を考えることができる。ただし、建物跡や遺物が出たからといって、それを直ちに武将の館や砦と呼ぶことはできない。中世の東京東部は、現在と海岸線や河川環境が異なり、低地の形成過程も考慮しなければならない。台東区の戦国史を魅力的に見せるために、鎧武者、馬、陣城の情景を補うより、何が発見され、何がまだ分からないのかを明確にする方が、歴史記事としての価値は高い。確認できない城や古戦場を削っても、上野台の集落、浅草の門前、水運、寺社、江戸への都市化という大きな流れは失われない。
寛永寺の造営が上野の丘の性格を大きく変えた
江戸時代に入ると、上野の丘は寛永寺によって大きく姿を変える。寛永寺は寛永二年、一六二五年に天海によって創建され、江戸城の北東に位置する祈りの場として整備された。のちに徳川将軍家の菩提寺を兼ね、子院、堂塔、墓所が広い範囲に配置された。現在の上野恩賜公園だけを見て当時の寺域を想像すると狭く感じるが、江戸期の寛永寺は上野の山の景観と動線を構成する巨大な宗教空間だった。清水観音堂、不忍池辯天堂、上野東照宮、旧寛永寺五重塔など、由来の異なる建造物が現在の公園内や周辺に点在しているのは、広い境内が近代以降に分割され、用途を変えた結果でもある。
寛永寺の成立によって古代の遺跡がすべて失われたわけではない。上野忍岡遺跡群の発掘では、縄文・弥生・古墳・奈良平安の住居跡の上に、近世の子院や墓所に関係する遺構が重なる例が確認されている。同じ場所が集落、墓域、寺院、公園、駅や道路へと使い直されてきた。歴史散歩では、現存建築を一つずつ見るだけでなく、現在の公園が江戸時代の境内配置をそのまま保存したものではないと知ることが重要になる。古い堂宇の位置、焼失した建物、移築された門、近代に建てられた博物館や美術館を地図上で確かめると、上野の丘が宗教空間から文化施設の集積地へ転換した過程が見えてくる。
慶応四年の上野戦争は台東区で確認できる最大の戦乱である
台東区内で場所と経過を具体的に確かめられる大規模な戦闘は、慶応四年五月十五日、現在の暦では一八六八年七月四日に起きた上野戦争である。鳥羽・伏見の戦い後、旧幕臣らで組織された彰義隊は上野山内を拠点とし、新政府軍と衝突した。寛永寺は本来、軍事目的で築かれた城ではない。しかし台地上に広い境内と多数の建物、門、斜面を持っていたため、戦闘時には防御に利用される地形と施設がそろっていた。したがって「上野の山全体が城だった」と断定するより、寺院空間が戦場化し、結果として要地のように機能したと表現する方が正確である。
戦闘は雨の中で始まり、新政府軍の攻撃によって半日ほどで大勢が決した。新政府側には佐賀藩が運用したアームストロング砲を含む近代的な火砲があり、彰義隊側との装備、指揮、兵力の差が勝敗に影響した。ただし、上野戦争を一門の砲撃だけで決着した戦いとして描くと単純化しすぎる。黒門口などでの地上戦、各方面からの包囲、彰義隊内部の状況、退路の確保など複数の要因があった。戦火によって寛永寺の多くの建物が失われ、上野山内の性格は決定的に変わった。戦後、境内地の大部分は寺から離れ、のちに公園や博物館用地として整備されていく。現在の文化施設が集まる上野の風景は、江戸の寺院空間を受け継ぐだけでなく、上野戦争による破壊と明治政府の土地利用転換の上に成立している。
彰義隊墓碑と二つの黒門から戦跡を読み違えない
上野公園の西郷隆盛像近くには彰義隊墓碑がある。この付近は上野戦争の激戦地とされ、戦後、円通寺の住職仏磨らが彰義隊戦死者を荼毘に付した場所である。小さな「彰義隊戦死之墓」は明治二年に埋納され、その背後の大きな「戦死之墓」は元彰義隊士らによって明治十四年に造立された。大碑の文字は山岡鉄舟の書とされる。碑面に彰義隊の名を大きく掲げなかった事情からは、明治初期に旧幕府側の戦死者を公然と追悼することの難しさも読み取れる。ここは勝者と敗者を単純に称賛する場所ではなく、戦死者の扱い、供養、名誉回復がどのように変化したかを考える史跡である。
黒門については混同に注意したい。上野戦争の激戦を伝える旧上野の黒門は、現在、荒川区南千住の円通寺に移築され、多数の弾痕が残る。一方、台東区上野公園十四番五号には寛永寺旧本坊表門が移築されており、こちらにも官軍の攻撃による弾痕が残る。どちらも上野戦争を伝える重要な門だが、同じ建造物ではない。また、清水観音堂や現在の根本中堂の柱や扉に無数の弾痕が残るという説明は、公式資料で一律に確認できない。特に現在の根本中堂は、上野戦争後に川越喜多院の本地堂を移築した建物であり、戦闘当時から同じ位置に建っていた本堂ではない。戦跡を紹介するときは、建物が当時から現地に残るのか、戦後に移築されたのか、弾痕の由来が確認されているのかを分けて記す必要がある。
上野公園を歩くと古代から近代までの土地利用がつながる
歴史散歩の起点は上野駅公園口がわかりやすい。駅周辺ではパンダ橋付近の発掘成果を意識し、東京文化会館や国立西洋美術館の間を進んで摺鉢山古墳へ向かう。墳丘では規模を眺めるだけでなく、周囲が台地であること、古墳群の多くが失われたことを確認する。そこから清水観音堂へ歩けば、斜面の高低差と不忍池の位置関係が見える。西郷隆盛像の近くでは彰義隊墓碑を訪ね、慰霊碑が戦闘直後ではなく、政治状況の変化を経て段階的に整備されたことを読む。さらに北へ進み、旧本坊表門、寛永寺、上野桜木方面まで歩くと、現在の公園中心部と寺院の現境内が離れている理由を実感できる。
摺鉢山古墳の説明板だけでは古墳時代の集落像は分からず、彰義隊墓碑だけでは上野戦争の全体像はつかめない。東京国立博物館の考古資料、台東区の文化財ページ、寛永寺の史跡案内、古地図や発掘報告を組み合わせることで、現地の見え方が変わる。浅草まで足を延ばす場合も、「戦国武将の城を探す」という前提ではなく、台地から低地へ下り、門前町、水運、道路、寺社の配置がどう変化するかを見る方が確かな発見につながる。上野と浅草の直線的な観光動線の間には、下谷、東上野、元浅草、稲荷町など、近世以降の町の形成を考えられる地域が続いている。
台東区の歴史は分からない部分を残して歩くから面白い
台東区の歴史の魅力は、古墳、城、合戦を派手な物語として並べることではない。上野台に残る摺鉢山古墳、地下から見つかった各時代の住居跡、低地に重なる水辺と町の形成、江戸期の寛永寺、幕末の上野戦争、明治以降の公園と文化施設への転換を、同じ土地の利用史としてつなぐことにある。確認できる古墳は重要だが、被葬者は不明である。中世の遺物はあるが、浅草城の実在や区内での大規模な戦国合戦は確認できない。上野戦争の弾痕は残るが、すべての古い傷を戦闘の痕と断定することはできない。この「分かること」と「分からないこと」の境界を守ることで、記事は具体的になり、現地で確かめる楽しみも増す。
上野公園は動物園、美術館、博物館、桜の名所として知られるが、その地面は古代の生活域、古墳、寛永寺境内、戦場、公園という複数の時代を抱えている。浅草のにぎわいも、江戸時代に突然生まれた孤立した観光文化ではなく、隅田川、寺院、門前、人の移動、災害からの復興が重なった結果である。歩くときには、説明板に書かれた数字や年代を確認し、丘の傾斜、池と川の位置、移築された建物、失われた境内を想像する。そうすれば、台東区は「戦国武将が駆け抜けた謎の古戦場」ではなく、土地の条件に応じて人々が暮らしを更新し、時に戦火で失いながら再び町を築いてきた場所として立ち上がる。むしろ、確かな遺構と記録を一つずつたどることで、上野と浅草の見慣れた風景の奥に、複雑な東京の姿が見えてくる。