目次

豊島区の地形と遺跡から読む二千年の歴史

豊島区の地形と遺跡から読む二千年の歴史

豊島区の歴史は古墳や古戦場を誇張せず地形と資料から確かめる

豊島区の歴史を歩くなら、最初に結論を明確にしておきたい。池袋、大塚、巣鴨、駒込、目白、雑司が谷、長崎などの現在の街並みの下には、縄文時代の生活跡、中世の村落、江戸近郊の農村、鉄道開業後の市街地化という異なる時代の痕跡が重なっている。一方で、区内に巨大な古墳群や多数の城郭があり、太田道灌と豊島氏の大軍が各地で激戦を繰り返したと説明するのは正確ではない。確認できる歴史の中心は、武蔵野台地と谷の地形、発掘された土器や石器、古文書に記された村名、寺社や街道、鉄道と人口増加の記録である。現在の景観だけで過去を想像せず、資料で裏づけられる時代を分けて考えると、農村から郊外住宅地、副都心へ変化した過程が見えてくる。

武蔵野台地と谷がつくった暮らしの基盤

縄文時代の遺跡は川沿いの台地で確認されている

豊島区は武蔵野台地の東部に位置し、全体が完全に平らな土地ではない。現在は暗渠となった谷端川や弦巻川の流域、神田川に向かって下る高田や雑司が谷周辺、台地上の池袋本町や長崎などには緩やかな高低差がある。古い時代の人々にとって、台地の縁は水を得やすく、低地の湿気や洪水を避けやすい場所だった。豊島区の公式年表では、明治十八年に池袋本町二・三丁目付近で氷川神社裏貝塚が発見され、明治期には上駒込、染井墓地、妙義坂、池袋などでも貝塚や遺物散布地が知られるようになったとされる。出土品には土器、石鏃、石斧、臼玉、管玉などがあり、狩猟、採集、調理、装身具の使用を考える材料になる。ただし、遺物が出たことだけで、現在の豊島区全域に大規模な集落が途切れなく続いたと断定することはできない。遺跡は開発や調査の範囲によって見つかり方が異なり、失われた場所もあるからである。現地では貝塚だけでなく、台地の縁、坂道、旧河川を地図と重ね、生活の場所に選ばれた理由を考えたい。

大塚という地名から古墳の存在を直ちに断定しない

豊島区の古代史を語る際には、「大塚」という地名を古墳と結びつける説明を見かける。しかし、地名だけを根拠に、現在の大塚駅周辺に有力者の巨大古墳が点在していたと断定することはできない。塚という言葉は古墳だけでなく、境界標、信仰の塚、盛土、墓などにも使われる。区内では縄文時代を中心とする遺物や遺跡が確認されている一方、東京の他地域に残るような明瞭な大型前方後円墳群が豊島区に保存されているわけではない。古代の豊島を理解するうえで大切なのは、特定の塚を壮大な首長墓に見立てることではなく、律令制下の武蔵国豊島郡という広い地域の一部として捉えることである。九世紀前半ごろの郷名を記した資料では、豊島郡に日頭、湯島などの郷があったとされ、現在の豊島区域もその範囲に含まれていたと考えられている。ただし、古代の郡域は現在の豊島区よりはるかに広く、現在の区名と古代の政治中心地がそのまま一致するわけではない。

豊島氏の歴史と現在の豊島区を区別して読む

豊島氏は広い豊島郡と石神井川流域に勢力を持った

中世の豊島氏は、秩父氏の流れをくむ武士団として知られる。『保元物語』には保元元年、すなわち一一五六年の戦いに源義朝方として参加した武士の中に豊島四郎の名が見える。鎌倉時代から室町時代にかけて、豊島氏は現在の北区、板橋区、練馬区、豊島区周辺に関係する所領を持ち、石神井川流域を重要な基盤とした。しかし、豊島氏の主要な城跡として遺構が確認されている石神井城は現在の練馬区にあり、練馬城も現在の練馬区に位置する。したがって、現在の豊島区内に堅固な城郭網が張り巡らされ、池袋や雑司が谷に多数の出城があったと描くのは根拠が不足している。中世の行政区分や勢力圏は現在の区境とは異なるため、「豊島氏」という名字と「豊島区」という現代の自治体名を重ねすぎない注意が必要である。豊島区の地名は古代以来の豊島郡に由来し、昭和七年に四町が合併して区が成立した際、消える北豊島郡の名を残す意図で採用された。豊島氏の本拠地が現在の池袋にあったための区名ではない。

文明九年の戦いは区外を中心に確認する

豊島氏と太田道灌の対立で重要なのは、文明九年、一四七七年の江古田・沼袋の戦いと石神井城をめぐる攻防である。江古田・沼袋の戦いの推定地は現在の中野区周辺、石神井城跡は練馬区にあり、主要な戦場や城跡は豊島区外に位置する。豊島区西部が戦場に近い地域であった可能性はあるが、池袋、巣鴨、雑司が谷の各所が血で染まる大古戦場になったとする確実な資料は確認できない。また、区内の供養塔や神社をすべて豊島氏の戦死者や怨霊と結びつけることも避けるべきである。石碑や塚には後世の信仰や地域伝承が重なり、建立年代や由来を個別に確認しなければならない。歴史散策では伝説と史実を分け、案内板や発掘報告書を照合したい。

戦国期の村から江戸近郊の農村へ

池袋や雑司が谷などの地名は十六世紀の記録に見える

豊島氏の衰退後、現在の豊島区域では村落の開発が進んだ。永禄二年、一五五九年の『小田原衆所領役帳』には、長崎、雑司ヶ谷、大根原、池袋、菅面、駒込、高田などの地名が記されている。これらは現在の町名につながる記録だが、当時から池袋に都市的な中心街が存在したわけではない。戦国期から江戸初期にかけての地域は、台地上の畑、谷沿いの水田、林や原野、寺社と集落が組み合わさる農村だったと考える方がよい。地名が古いことと、現在の街並みがそのまま古代や中世から続いていることは同じではない。道路の付け替え、河川の暗渠化、鉄道敷設、区画整理、戦災と再開発によって景観は大きく変わっている。

江戸時代の七か村は野菜と園芸で市中を支えた

江戸時代の現在の豊島区域には、上駒込、巣鴨、池袋、長崎、雑司谷、下高田、新田堀之内の七か村があった。『新編武蔵風土記稿』をもとにした豊島区の説明では、上駒込村を除く六村で合計五百七十六戸、人口は全体で約三千人前後と推定されている。下高田、雑司谷、巣鴨、上駒込には大名の下屋敷や抱屋敷もあったが、大部分は農地だった。神田川や谷端川、弦巻川などに近い低地には水田があり、台地上では畑作が行われ、江戸市中へ野菜が出荷された。駒込なす、巣鴨だいこん、巣鴨こかぶ、長崎にんじんなど、土地の名を冠した作物も知られる。池袋の繁華街からは想像しにくいが、近世の地域経済を支えたのは駅や百貨店ではなく、畑、街道、寺社の門前、江戸との流通だった。

染井の植木屋とソメイヨシノの歴史をたどる

駒込の染井は、江戸時代から明治時代にかけて多くの植木屋が集まった園芸地域である。ツツジやサツキ、菊などの栽培と品種改良が行われ、江戸市中の園芸文化を支えた。ソメイヨシノは江戸時代末から明治時代にかけて染井の植木屋によって売り広められ、奈良県の吉野山の桜と区別するため、後に染井の名を付けて呼ばれるようになったと説明されている。ただし、一人の職人が特定の日に発明したと確認できる品種ではなく、誕生や普及の過程には不明な点も残る。現地では染井吉野桜記念公園、西福寺、染井稲荷神社、染井霊園などを歩くと、植木屋の活動、墓域、近代の公共墓地、現在の地域振興が重なっていることが分かる。桜の開花だけを楽しむのではなく、園芸を産業として担った人々の仕事に目を向けると、江戸近郊農村の姿が見えてくる。

寺社と街道がつくった参詣と交流の道

雑司ヶ谷鬼子母神堂は江戸の参詣地として栄えた

雑司ヶ谷鬼子母神堂は、地域の歴史を伝える建造物である。伝承では永禄四年、一五六一年に鬼子母神像が清土で掘り出され、天正六年、一五七八年に村人によって堂が建てられたとされる。現在の本殿は寛文四年、一六六四年、広島藩主浅野光晟の正室である自昌院の寄進により建立され、元禄十三年、一七〇〇年に相の間と拝殿が加えられた。江戸時代には安産や子育ての信仰を集め、門前には参詣者を迎える町場が形成された。建物は平成二十八年、二〇一六年に国の重要文化財に指定されている。ここを中世合戦の遺構として見るより、近世の信仰、建築、参詣、門前の商いを伝える場所として理解する方が資料に合う。境内や参道を歩く際は、寺院の信仰空間であることを踏まえ、法要や参拝者の妨げにならないようにしたい。

巣鴨と駒込は街道沿いの町場へ変化した

江戸市街地が広がると、中山道沿いの巣鴨や駒込、寺社の門前には町場が成立した。十八世紀半ばごろには巣鴨町、雑司ヶ谷町、高田四ツ家町、鬼子母神門前などが町奉行所の管轄に組み込まれている。現在の巣鴨地蔵通り周辺も、単に近代以降の商店街として突然生まれたのではなく、街道、寺院、参詣者、近郊農村の流通を背景に発展した地域として考えられる。ただし、現在の店舗や商店街の形が江戸時代からそのまま残っているわけではない。道筋、寺社、旧地名、古地図を手掛かりに、変わった部分と継承された部分を分けて観察することが大切である。

鉄道の開業が池袋を郊外から副都心へ変えた

明治三十六年の駅開業が街の重心を動かした

明治初期の現在の豊島区域には農地や原野が多く、中山道沿いの巣鴨や雑司ヶ谷鬼子母神の門前を除けば、都市的な賑わいは限られていた。転換点になったのが鉄道である。明治十八年、一八八五年に目白駅が開業し、明治三十六年、一九〇三年には池袋から田端方面への線路が開通して、池袋、大塚、巣鴨の各駅が開業した。駅は既存の村の中心と必ずしも一致せず、人と物の流れを新しい場所へ引き寄せた。さらに大正三年、一九一四年に東上鉄道、大正四年、一九一五年に武蔵野鉄道が池袋を起点として開通すると、池袋は東京市中心部と北西郊外を結ぶ交通拠点になった。現在の巨大ターミナルは古代以来の中心地ではなく、複数の鉄道路線が接続した二十世紀の交通条件によって形成されたのである。

学校の移転と震災後の人口流入が住宅地を広げた

明治末から大正期には、学習院、立教大学、大正大学につながる教育機関などが区内へ移り、学生や教職員を受け入れる街が形成された。大正十二年、一九二三年の関東大震災後には、東京市中心部から郊外へ住居を求める人が増え、豊島区域の市街地化が加速した。農地は住宅地や商店街へ変わり、道路、学校、上下水道などの整備が課題になった。大正末には区域の人口が二十万人を超えたとされ、短期間の人口増加が現在の密集した街区の基礎をつくった。歴史を歩く際は、古い寺社だけでなく、駅から放射状に延びる商店街、細い住宅道路、学校の敷地などにも、郊外化の時代の特徴が表れている。

豊島区の成立と戦争を経た都市の再編

昭和七年に四つの町が合併して豊島区が誕生した

現在の豊島区は昭和七年、一九三二年十月、東京市の市域拡張によって誕生した。北豊島郡の巣鴨町、西巣鴨町、高田町、長崎町が合併し、古代から続く郡名を残すために豊島区の名が選ばれた。池袋町という自治体がそのまま区になったのではなく、性格の異なる四町を統合した点が重要である。このため、池袋、巣鴨、目白、雑司が谷、長崎、駒込はも街路、商業、住宅、寺社の分布が異なる。豊島区の歴史を池袋駅周辺だけで代表させると、旧中山道の町場、染井の園芸、雑司が谷の門前、長崎の住宅地などが見えなくなる。

戦災と復興は現在の池袋の景観にもつながる

太平洋戦争末期、豊島区も空襲による被害を受け、住宅や施設が失われた。終戦後の池袋駅周辺では、物資不足の中で露店や市場が生まれ、交通拠点として人が集中した。その後、駅前整備、百貨店や文化施設の開設、地下鉄の延伸、道路整備、再開発が重なり、池袋は東京の副都心の一つへ変化した。ただし、現在の高層建築や繁華街だけを「発展」と捉えると、戦災、住宅不足、人口集中、防災、公共空間の不足といった課題を見落とす。都市の歴史は華やかな施設の開業年だけでなく、住民がどのように暮らしを再建し、道路や公園、学校を整えてきたかという過程も含んでいる。

豊島区の歴史を現地で確かめる歩き方

地形、資料館、寺社、街路を組み合わせて読む

豊島区の歴史を理解するには、伝説だけでなく異なる資料を組み合わせるとよい。池袋本町では氷川神社周辺の台地と谷端川の旧流路を意識し、駒込では染井の植木屋とソメイヨシノ、雑司が谷では鬼子母神堂と門前、高田では神田川へ下る坂、巣鴨では旧中山道と寺院、池袋では鉄道の接続と駅前の変化を見る。豊島区立郷土資料館の展示、文化財の案内板、古地図、区史、発掘調査報告書を確認すれば、現地で見えるものと地下から発見されたものを結びつけられる。公開状況や開館日は変更されるため、訪問前に公式情報を確認したい。

確認できる事実と地域の伝承を混同しない

歴史散策の魅力は、過去を想像しながら現在の街を歩けることにある。しかし、盛り上がった地面を古墳、曲がった道を城の防衛線、古い石碑を合戦の供養塔と即断すると、街の歴史をかえって単純化してしまう。地形には河川や農道、土地境界、鉄道建設、区画整理など多くの要因があり、寺社の伝承も成立した時代や目的が異なる。確認できないことは確認できないとし、伝承は伝承として紹介する姿勢が、地域の歴史を尊重することにつながる。池袋の高層ビルと縄文時代の遺物の間には、一直線の物語ではなく、農村、門前町、園芸地、鉄道郊外、戦災復興、副都心化という複数の転換がある。その積み重なりを歩いて確かめることこそ、豊島区の歴史の実像に近づく方法である。

TOP